淡路島に残るイスラエルの足跡

 Report 2014.11.21 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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昭和27年の淡路島の騒動
それは、ある男の不可解な急死によって始まった。
その男の名は森重吉氏、淡路島洲本の小路谷(オロダニ)で四州園という旅館を営業していた。彼は、旅館の湯殿を建てようとして整地していたところ、遺跡としか思えないものを掘り出してしまったのだ。その夜、うめき声をあげながら急死した。昭和9年9月、享年47歳であった。遺跡と急死の因果関係はわからないが、さらに、一逮夜の日、室戸台風が襲来し、旅館まで大被害を受けたのである。
近所の人々は、岬神の祟りであると恐れ、その遺跡を埋め戻してしまったのである。

この遺跡が脚光を浴びるのは、昭和27年まで待たなければならなかった。
白山義高氏は、この遺跡がイスラエル人の遺跡であるとの自説を発表し、その話を聞いて、昭和27年10月14日に、再び発掘されることになった。それも米軍に同行していたイスラエルのローゼン大司教や日本イスラエル協会長小林孝一らが立会う大規模なものであった。

 【昭和27年10月13日神戸新聞】

その時の新聞記事を以下に転記する。(氏名、月日などの事実の誤りが見られるが、あえて原文そのまま転記した。)

神戸新聞 昭和27年10月13日
日本人にもユダヤ人の血?
淡路で遺跡を発見
内藤博士らが調査

世界の流民といわれるユダヤ人の祖先が大古の日本に渡来したというナゾの学説はこれまでしばしば流布されて来たが、それを裏づける考古学上の確証はなかった
ところがこんど淡路島にその遺跡があると淡路古文化解放協会会長白山義高氏が発表して以来果然学界でも注目するところとなり、外務省嘱託内藤智秀博士らが淡路島におもむき調査、発掘を行なうことになった
一行は元米第八軍専属T・ローゼン大司教、日本イスラエル協会長小林孝一、同理事長鶴見憲、同常務理事横尾守仲の各氏のほか鶴見裕輔氏らで、十三日午後三時洲本着、また内藤博士は十六日着ただちに大掛りな調査に乗り出すが、十四日はまず午前十時から遺跡があるといわれる洲本市郊外菰江海岸旅館四州園(経営者森重吉氏)内で発掘式典を執行、午後は日本イスラエル協会員による座談会夜は洲本市第二小学校で講演会や映画会(イスラエル建国史)などが催され、注目の発掘は十五日午前九時からいよいよ発見者白山氏のクワ入れによって行われる
現場は四州園内の中央部にある突出した平地にあり、すぐ下に大阪湾が開ける景勝の地で、現在は小さな立石がありその下にイスラエル人の遺したとみられる石ヅカが眠っているといわれる、約二十五年前に同旅館の先代重吉氏が湯殿を建てるため整地したところ、地下一メートルくらいのところに一メートル四方にわたって石がV字型に置かれ、天井にはフタがしてあって内部には二寸か三寸ほどの石が入れてあるのを発見したもので、当時の目撃者の一人である森アサさん(70)=洲本市外通六=は「むつかしいことは分らないが、入ったときは石の室の中にまだ小さな石が八個入っていた、しかしどういうわけかその日に元気な重吉さんがポックリ死んでしまったのでたたりがあるというのですぐ埋めてしまったのをはっきり覚えています」と語っている
現在同島で調査している伊勢古事記研究会長武智時三郎氏の話によるとイスラエル人が日本に来たことは間違いなく、とくに①日本民族史上からいって淡路が一番古い土地といわれる、淡路の先住民族はアイヌ人といわれるが、アイヌ人は言語的にいってイスラエル人に通ずる②現場の菰江(コモエ)という地名はヘブライ語では「碑の上の菰」という意味で石ヅカの存在と符号する―などをあげている、発見者の白山氏らは「いまから三千年くらい前にダヴィデ(旧訳聖書に出てくる人物、新訳ではキリストの祖先だという)の縁者とみられるものがある意図をもってここに構造物を置いて行ったのではないか」という推理を導き出しており、こんどの発掘によってそれを実証づけることになったものである
しかし日本の学界ではこれに対し①この推理を否定する材料はいまのところ何もないが、時代考証は伝承によっているので学問的実証とはならない②イスラエル人が日本に渡来したということになると大和民族論を訂正するばかりではなく、国体や皇室にも影響がある―という二点を理由にしてこれまであまり積極的な動きはみせていないが、この発見についての興味と学問的な認識はもっているといわれ、白山氏は「そこに微妙な点があるのでイスラエル協会やアメリカのアインシュタイン博士らユダヤ人の多くが関係しているニューヨーク文化センターの協力によってあくまで純粋な学問的体系を一応立ててみたいと思っている、なお現在イスラエル共和国に照会中の同国内における碑文(古代文字)の解読文を入手すればこの発見はさらに裏づけの要素を深めることになるだろう」と語っている
とまれこの発掘によってイスラエル人の遺跡と確認されるものが発見されれば、日本の有史以前にイスラエル人の一部が淡路に渡って来たということになり一躍世界の興味の的となるとともに、日本の伝説〃神代時代の天孫民族〃なるものがユダヤ人の祖先と同一民族?ということも考えられ、ナゾを秘めた十五日からの調査の成行が注目されるわけである

 【昭和27年10月14日発掘式典の様子】  【最前列左より2人目、湊宇吉(一族最長老)】
淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱルより


神戸新聞 昭和27年10月15日
V字石の謎解明へ
イスラエル人遺跡 発掘いよいよ進む
洲本市菰江海岸にあるといわれるイスラエル人遺跡の発掘は予定を変更、十四日午後一時から午前中の式典に引続いて行われた、ユダヤ教牧師(米駐留軍付)P・ローガン大佐、日本イスラエル協会長小林孝一氏始め同幹部、淡路古文化解放協会長白山義高氏らが立会い、人夫十名がまず「小磯神社」と銘のある石塔を取除いたのち、クワやツルハシなどでツカ石が埋めてあるといわれる現場を発掘、午後三時すぎV字型の石の上ブタの上に当る部分まで掘り出し第一日の発掘を終わった、この上ブタの上にはさらに偏平になった石が置いてあり、廿五年ほど前に一度このツカを掘ったとき居合せた森あささん(70)=同市外通六=は再び今回の発掘に立会いながら「この下に青石のようなきれいな石が埋っている、そして部屋の中には小石が八個ほど入っていて何かおごそかな感じのものでした」と語った、発掘は十五日午後九時からさらに続けられるが、午前中にはV字型の底面位までの部分だけを露呈させ内部の小石を検分するがこのツカの発見者である白山氏は「これまでイスラエル人遺跡の系統に属するとみられるツカは諭鶴羽山(三原郡灘村)から海浜に向ってすでに二十四ヵ所発掘されている、これはその二十五番目に当るもので、一番重要な意味を持っている、V字型がさらに発掘されてX型になっておればますますユダヤ人の遺跡として確実度を深めることになり、われわれとしてはこんどは正式に専門学界に報告、本格的な学術調査を要請するつもりであると語った



神戸新聞夕刊 昭和28年2月8日
淡路にヘブル大学院
イスラエル文化しのんで
昨年十月イスラエルの遺跡発掘で話題を呼んだ淡路島洲本市にこんどは日本イスラエル協会が文化遺跡記念碑とヘブル大学院を設立することとなり、八日朝同協会会長小林孝一氏、同理事長鶴見憲氏、同理事白山義高氏、イスラエル文化の世界的権威ミルトン・J・ローゼン大司教らが神戸から下検分のため洲本市に向った、同協会理事白山文化部長の話によるとヘブル大学院とは世界最古の造形文字であるヘブル語を通じ古代文化を研究しようという機関で、大学院の設立には海外各方面から声援が送られているがすでに資金の目途もつき教授陣もそろっている、完成するのはまだ数年を要するが出来上がれば東洋唯一のもので将来は淡路の文化センターにまで発展させる予定だという

    【ローゼン師】 淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱルより


昭和27年10月14日に、洲本第二小学校で行なわれた講演会で、大司教ローゼン師が講演した内容は以下のようなものであった。

私たちユダヤ人は、支那と日本を除いた他の國國によって壓迫をうけて來ました。このように多くの國々によつて迫害されて來た國であるといふことが、想像されますか。これほど迫害されたユダヤ人でありますが、一つの秘密もなく、科學宗教經濟、あらゆるものに亘つて、世界をリードして來ました。我々ユダヤ人の先祖は、「暗より明へ」「無より有へ」と世界文化を導いてまいりました。何故、ユダヤ人が迫害をうけ、壓迫をされながらも自己のもつ宗教を捨てないかと言へば、若しこの宗教を捨てたならば、忽ちユダヤ人は、どうなるかを知つているからであります。
(中略)
なぜユダヤ人は信ずる事が出來たか?
その強さは何處にあるか?
これが奥義中の奥義である。必ず二千年後にユダヤ人は、祖國にかへるといふ預言者の言があつたからである。神は常に我等と共に在るのである。ユダヤ人は、預言者の言を信じ、あらゆる迫害に忍へて來たのである。二十世紀に於いて、果たせるかな預言は實現したのである。
(中略)
今、日本も戰爭に負け、古い日本帝國は亡び、新しい日本皇國が再建されました。日本人は古い歴史と文明を持つた國民です。私は日本は絶對にユダヤ人を迫害しなかつた事を知つています。日本には多くの神社佛閣が、平和に立ち並んでいます。この新しい日本と、新しいイスラエルとが、相提携すれば、いかに強力なものになるでせう。
世界に幸福と平和をもたらすものは、この二つの國旗であります。ごらんなさい。太陽と星とであります。太陽は晝の世界を照します。この星は夜を司る司會者なのです。全世界がなやみの時は、この暗黒の世界を導いてゆくものは星であります。太陽も世界に正義の觀念を與へます。この二つがお互に手を組んで進んで行かうではありませんか。偉大なる太陽の國シオンよ目を醒ませ。その努力と貢献は必ずや世界に平和と幸福をもたらすでありませう。

武智時三郎:淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱル、淡路古文化開放協會編、(1953)2-5 より抜粋

この演説に、洲本は大いに盛り上がり、ヘブル大学院まで設立しようとした様子が新聞から読み取れるが、実現はしていない。

※昭和27年10月13日および15日の神戸新聞では、昭和27年の25年前(つまり昭和2年)に遺跡が最初に発掘されたと記載されているが、昭和9年の間違いである。
昭和27年10月15日の神戸新聞のローガンはローゼンの間違いである。
なお、森重吉という氏名は、森本家代々の襲名である。

日ユ同祖論
ここで、日ユ同祖論、つまりイスラエルの失われた十部族が日本にたどり着いたという説について簡単に説明しておく。

紀元前17世紀頃、アブラハムによってメソポタミヤからカナンの地を目指したイスラエルの一族は、ヤコブの時代にエジプトの奴隷となったが、紀元前13世紀頃モーゼによって連れ出され、ダビデ王の時に(紀元前1000年頃)、統一イスラエル国家をつくる。
ソロモン王の下に繁栄したが、王の死後(紀元前930年頃)にサマリアを首都とした北王国イスラエルとエルサレムを首都とした南王国ユダに分裂する。
ヤコブには、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの12人の息子がおり、その子孫がイスラエルの十二部族である(後に司祭のレビ族は、領土を持たなかったので、ヨセフ族がエフライム族とマナセ族の二つに分かれた)。

ルベン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、エフライム、マナセの十部族が属した北王国イスラエルは、紀元前722年にアッシリアによって人々は捕囚され連れさられた。
一方、ユダ、ベニヤミン、レビ族からなる南王国のユダも、紀元前586年にバビロニアに捕囚されたが、アケメネス朝ペルシアによって解放されイスラエルに帰還した。その後、紆余曲折の末、70年にローマ帝国に征服され、離散生活を余儀なくされた。
1948年、南王国のユダの民族によって、現在のイスラエル国が誕生したが、北王国イスラエルの部族は戻らず、どこに行ったかわからなくなってしまった。それが「失われた十部族」である。

イスラエル民族にとって、十二部族が全て揃ってエルサレムに統一国家をつくることが悲願であり神に約束されたことなのだ。そのためイスラエルでは、「アミシャーブ」という専門の機関まで作って、失われたイスラエル十部族を真剣に探しているのである。
日本の風習や神道と古代イスラエルの数々の共通点から、その十部族が日本にたどり着いた可能性は高く、近々、イスラエル国が発表するという噂まである。

その失われた十部族と思われるのが、徐福である。
徐福は、紀元前三世紀に、日本に渡来する。
『史記』の「秦始皇本紀」によると、斉の徐市(ジョフツ)=徐福は、秦の始皇帝が不老不死の仙薬を探していることを知ると、紀元前219年に巡幸してきた始皇帝に、「海中に蓬莱、方丈、瀛州という名の三神山あり、仙人がこれに居る。斎戒と童男女を得てこれを求めたい」と願い出た。徐福は、童男女と東の海に出かけたが何も得ることはなく帰国した。
『史記』の「淮南衡山列伝」には、その後、徐福は、紀元前210年に再度巡幸してきた始皇帝に対し、「私は海の中で大神に会った。大神に寿命を延ばす薬を探していると言うと、始皇帝の礼が薄いという理由で薬を見ることはできても取ることはできないと言われ、私は東南の蓬莱山に連れて行かれた。海神は、良家の童男女と百の道具を持ってくれば叶うと言っている」と再度の航海を願い出た。始皇帝はこれを許し、徐福は、童男女三千人と五穀の種と百種の道具を船に乗せて航海に出た。しかし、徐福は、平原と広沢のある所を得て王になり、とどまって帰ってこなかった、と記録されている。
『史記』は、この事件のあったわずか120年後に書かれた公式文書とも言える書物であり、記述の信憑性は高い。また、日本各地に徐福に関する伝承が残されていることから、徐福が三千人とともに日本に到着していた可能性は高い。徐福は漢民族ではなく羌族であり、アミシャーブは、羌族はイスラエル文化を持っていると報告している。私は、この徐福一行も失われた十部族の一部ではないかと考えている。
当時の三千人というのは非常に大きな勢力であり、少なくとも日本に一つの国を形成したことは想像に難くないが、なぜか『日本書記』『古事記』には、徐福渡来に関する記述がない。それは、徐福渡来が日本にとってあまりにも大きな出来事であり、日本という国の骨格を形成するものであったため隠されたと推測する。

さらに、三世紀には、失われた十部族と思われる弓月の君が渡来する。
秦の始皇帝三世孫、孝武王の後裔である融通王こと弓月の君は、『日本書紀』によれば、応神天皇14年(283年)2月、百済から来朝して天皇に、「百二十県の民を率いて帰化したいが、新羅人に邪魔されている」と上奏した。天皇は葛城襲津彦(カツラギノソツビコ)を使わしたが三年経過しても帰らなかった。応神天皇16年(285年)8月、平群木莵宿禰(ヘグリノツクスノスクネ)と的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)が精鋭を率いて加羅に派遣され、弓月の君が民を率いて渡来した。
この民が秦氏である。秦氏が日本に養蚕、農耕、造酒、土木技術などを伝え、五世紀末には山背国に一大勢力を築くことや、秦氏の遺業や遺構にキリスト教の影響が見られることは、今更いうまでもない。
拙著ホームページ「秦氏を追って」参照

弓月国は、現在のカザフスタンのバルハシ湖の南にあり、景教(ネストリウス派)であったと考えられている。この弓月の君の一行は、失われた十部族の一部が旅の途中で、キリスト教の影響を受け、日本にたどり着いた人達だと考えられる。

淡路島古茂江(菰江)のイスラエルの遺跡

さて、この遺跡について書かれている唯一の本が昭和28年に出版された『淡路の神秘 エル・エロヘ・イスラエル』 (淡路古文化開放協會編 解説者武智塩翁、発行人白山義高)である。昭和47年に再編され『日本学とイスラエル』(著者武智時三郎、発行者思金鴻秀)として思金書房から出版された。さらに平成12年に成錦堂から改訂版が発行されたが、現在は品切れ中である。

内容は、武智時三郎が言霊学と数秘術を用いて、日本とイスラエルの宗教を比較したものであるが、非常に難解で私が解説できるようなものではない。
ここでは、イスラエルの遺跡の解説部分だけ引用させていただく。


問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは
 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、四州園内の小磯とよばれる景勝地の海面に突出した盤岩の岬に秘められた問題の古代淡路文化遺跡の實相が、遂に多人數立會いの許に確認されました。 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる火と水との作用で製作した女の陰所(ホド)の彫像でありました。今から三十年程前に一度發掘したことがあつて、この預期せぬ工作物を發見したことがあるが、祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。其の當時の目撃者の談話を綜合しますと、埋没されていたV字型に置かれた二枚の板石といふのは、この女陰部を、かくした覆であると共に、陰所の名を表はす呪文的象形と考へられます。二度目の發掘であつたが為にV字型の施設を、古人の意圖として觀ることは出來なかつたが、第一回の發掘時にはV字型の樋の上に、幾つかの玉石が置いてあり、その上に石蓋を置き、これを▽の象形にして、土中に埋没し、其の上にバベの樹を紀念に植え後代に遺した上代人の意圖が窺はれます
といふのが、淡路古文化開放協會の發掘報告の一節であります。
武智時三郎:淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル、淡路古文化開放協會編、(1953)14-15 より

  【イスラエルの遺跡内部】淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱルより

前述した新聞記事や『淡路の神秘ヱル・ヱロヘ・イスラヱル』から推察すると、遺跡は、上から、バベの樹、扁平の石蓋、8個程度の玉石と青石、V字型に置かれた二枚の板石、女陰を象った彫像という構造であったようだ。

この古茂江(コモエ)の遺跡ついて、形態的に考察してみる。

その構造は独特のもので、他の日本の遺跡に似たものはない。
また、遺跡の中心である女陰を象った彫像は非常に艶かしいほど写実的である。

日本のイワクラの中で、女陰を表していると考えるものは、抽象的な造形が多い。
たとえば、同じ淡路島に存在する山王神社のイワクラでは、2つに割れた岩で女性を表している。
また、淡路島の舟木石上神社のイワクラは、女陰を三角形の岩屋とその奥に据えた石で表している。
さらに、東山寺奥の院のイワクラは、女陰を菱形で表している。女児の節句であるひな祭りに供える菱餅も女性を菱形で象徴したものである。
同じ淡路島に現存するこれらのイワクラはどれも女性器を象徴し、子孫繁栄を願ったものと考えるが、このイスラエルの遺跡ほど写実的ではない。

【淡路島 山王神社  女陰岩】Photograph 2013.3.9

【淡路島 舟木石上神社 女陰岩】Photograph 2013.3.10

【淡路島 東山寺奥の院 女陰岩】Photograph 2013.3.10

 したがって、少なくとも淡路島の人が造った遺跡ではない、というのが私の結論である。
さらに、イスラエルの司教がイスラエルの遺跡と認めている事実は、やはり重要であり、この遺跡をイスラエル人が造った可能性は高い。

現在、旅館「四州園」は、紆余曲折を経て「ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景」になっている。
遺跡の方は、昭和27年の調査の後、再度、四国剣山顕彰学会の人によって掘り起こされたが、埋め戻され、遺跡の上にレプリカの遺跡が造られた。
そしてその遺跡は、現在も森重吉氏の従兄弟である湊格氏によって、手厚く祀られている。

この遺跡の管理継承者である湊格氏は、『淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル』の復刻などを手がけられ、淡路島の文化や歴史を保存しようとご尽力されている方である。

湊氏によると、玉石が納められていたと思われる石棺が遺跡の側に無造作に放置されていたが、市内の研究者が京都大学に持って行くと言って持ち去ったまま行方不明になっているとのことである。また、その石棺には、図2のようなマークと文字が書かれていたということであり、この石棺が残っていれば、イスラエルの遺跡であることを証明する決定的な証拠となったかもしれない。
また、鹿と六芒星が描いてある指輪が出土したが、ある人物が持ち出している。この指輪について、湊氏は、ローゼン師が持ち込んだものではないかと考えられている。
鹿は、失われたイスラエル十部族の中のナフタリ部族の紋章である。もし、ローゼン師が持ち込んだものではなく、この遺跡から出土したのであれば、ナフタリ部族が日本にたどり着いていた証拠となる。

この遺跡には人は埋葬されていないので、一般的な古墳ではない。
しかし、湊格氏や後述する魚谷佳代氏は、この遺跡の海岸側に、海から遺跡に続くかのような岩の割れ目があることから、葦舟の大船団を組んで、淡路島に達したイスラエル十部族が、航海中に亡くなった同族を弔うためにこの遺跡を造ったのではないかと考えられている。つまり亡くなった人を弔うための鎮魂施設ということである。
この説は核心をついているように思う。
遺跡の中心に、女陰を模した造形物があったことから日本のイワクラと同様の祭祀場と考えたいのだが、それが埋められていたことが問題である。埋めるという行為は、霊魂を静かに鎮めるためであろう。そう考えると神を祀る祭祀場というよりも、死人を弔った鎮魂施設と考える方が適切であろう。

【淡路島古茂江 現在のイスラエルの遺跡】Photograph 2013.9.14


 【淡路島古茂江 現在のイスラエルの遺跡の海岸側】Photograph 2014.11.16

 
淡路島に同類の遺跡はあるか

次に、淡路島に同類の遺跡は無いのかという疑問がわいてくる。
これについて、白山義高は、出口王仁三郎の命により(詳細は後述する)、淡路島でイスラエルの遺跡の調査を行なっている。
その結果、24ヶ所で遺跡を発見し、この古茂江の遺跡が25番目であると言っている。
『淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル』に掲載されている遺跡の地図には、淡路島の南海岸沿いに遺跡のマークが書かれ、油谷(ユダニ)には、イスラエル人が最初に渡来した所と記載されている。
 【図1 白山義高が描いたイスラエルの遺跡地図】淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエルより

また、武智時三郎は、この祟神の祠は小さい石室で、その表面の扉に当たるところに【マーク】が彫刻されていると述べている。
ちなみにこのマークについて、武智は、ダビデ章のヅレを直して正しく天地人に組み替えたものと説明している。
【図2 イスラエルの遺跡に描かれていたマーク】淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエルより

白山義高は、淡路島の随所で発見する石室の表面にこのマークが施してあるとも言っている。
ここでいう石室が、図に書かれた24ヶ所の遺跡のことを指すのかどうかは定かではないが、私は古茂江の遺跡以外にそれらしい遺跡を知らない。

地元の人に聞いてみても、白山義高が発見した遺跡の情報を得ることはできておらず、当時の資料は、白山義高の死と共に全て焼却されてしまっていて、手かがりも残っていない。

白山は、この遺跡の地図で、イスラエル人が油谷に上陸し、その後淡路島の東南岸を北上し、最後に古茂江の遺跡を造ったということを言いたかったのではないかと考える。

確かに、そこに登場する油谷(ユダニ)、諭鶴羽(ユズルハ)、由良(ユラ)という地名はユダヤを連想させる。

淡路島の南にそびえる諭鶴羽山は、行者達らによって途絶えていた修験道が復興され五大修験場の一つとなっているが、諭鶴羽神社は、伊弉冊尊、速玉男命、事解男命を祀り、元熊野と云われているほど古い神社である。イスラエルの痕跡が残っていても不思議ではないが、残念ながらその痕跡は見つけることはできていない。

【淡路島 諭鶴羽神社】Photograph 2013.9.14

一方、油谷は、奥まった山間の土地で、イスラエル人が隠れ住んだ場所としては、納得いく場所である。イスラエル人の血が受け継がれているのであろうか、時々、青い目の人が生まれるという話を聞いた。
また、湊氏によると油谷一帯には美人が多く、今でも美人の郷と言われているそうである。

『柞木田龍善:日本超古代史の謎に挑む、風濤社(1984)』には、壇ノ浦の戦いに敗れた平家がこの地に上陸したときに、既にユダヤ人の原住民がいたため、この地方の人はユダヤ人と平家の混血だと伝わっていると書かれている。

【淡路島 油谷】Photograph 2013.9.14

油谷に対面する海上に沼島(ヌシマ)という島が浮かんでいる。この勾玉の形をした島について、私は、古事記に登場する淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)と比定している。
拙著ホームページ「オノゴロ島と国生み神話」参照

オノゴロシマとは、伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)が、天の沼矛(アメノヌボコ)で海水をかき混ぜたとき、天の沼矛からしたたり落ちてできた島であり、イザナギとイザナミが国生みをする島である。イザナギとイザナミは、天の御柱(アメノミハシラ)を廻り、淡路島から順に国を産んでいくのである。
沼島では、1億年前の地層を見ることができ、上立神岩(カミタテガミイワ)という巨大な天の御柱、近くには、海水をかき混ぜた様子を想像する鳴門の渦潮もある。沼島はオノゴロシマに最もふさわしい場所である。
【沼島 上立神岩】Photograph 2012.12.12

私は、イスラエルの失われた十部族は、遥かな旅のあと、まず、日本の原点というべき沼島に上陸したのではないかと考える。
そして、対岸の油谷に渡り、淡路島を北上して、遺跡のある古茂江を中心として淡路島に住み着いたのではないだろうか。

白山の調査資料が残っていれば、これらのことを証明できたかもしれないが、重ね重ね残念である。

出口王仁三郎の裏神業

この遺跡には、大本教の神業も関わっている。

白山義高は、出口王仁三郎の淡路島神業の実行部隊のメンバーでもあった。
白山は、自らの神業経緯を『淡路の神秘 ヱル ヱロへ イスラ ヱル』の前書の中で、「皇道大本の意義、鳴門の仕組みを委嘱される」と題して書き残している。

昭和10年頃、出口王仁三郎は、白山に「お前は一宗一派に囚われてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ」と命じた。さらに「皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質を知らせ、更に直接に、立替立直しの業をする立役者を仕立てることであるが、方便の上には、立替立直しの雛形を似て教えを示すところである。雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ、この筋書きを本當に知らせて置く適材が見つからぬ。然しまだ帝國日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか」と白山に相談し、白山が「私にできることなら」と承諾すると、神業を授けた。
王仁三郎は、「淡路の神代村という地に大井戸を掘上げて貰い度い。然し實際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、淡路島の古文化遺跡の資料調査をして欲しい」と要所要所の差圖をした。

その後、王仁三郎は、大本教への弾圧により投獄されたが、獄中から白山に、井戸は元井戸と命名し、時期がくるまでは他言無用、完成したなら永久保存の方法をとり、元井戸の一隅にお宮を建てて祭ることを命じた。
昭和19年10月に元井戸が完成すると、王仁三郎は、大本開教当時から保存されていた銀の短冊に御神号を書いて「これを御神體とせよ」と白山に下した。そして、「この御神體は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差圖する。この雛形行事の上にも、第一に淡路の神秘が開發されねば、『不二と鳴門の大本の仕組み』は完成せぬ」と伝えた。
終戦後、白山は王仁三郎の指示を受け、御神体を滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸はそのままの姿で保存した。
この短冊には、大国常立大神、金山姫神、金山彦神の神名が書かれ、拇印が2箇所に押され、裏には、「これのある処常に神業の中心地」と書かれていたという。

王仁三郎は、昭和22年12月に行なわれた白山との会見で次のように告げた。
「元井戸の御神體を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教がこの一堂に会する場面となる。この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。淡路の霊山諭鶴羽の山腹にある子寶温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開發することが大切である。その時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を廣く世界に告げ知らす必要がある。こうなると、日本とイスラエルには、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣傅が始まる。その頃には、自然に之に當るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰い度い。然しわしはモー来月からお前の世話をすることが出来ない」
この後、出口王仁三郎は、昭和23年1月19日に昇天した。

出口王仁三郎が、いかに淡路島とこのイスラエルの遺跡を重要視していたかがわかる。これは、日本国土は世界の国土の縮図であるという考えから導かれたことであり、淡路島は日本国土発祥の地であると同時に、世界国土の発祥の地と言う霊的地位を持っていたということであろう。そして、淡路島の元井戸から世界へ向けて、神による変革を拡大させていこうと計画したのではないかと思う。
この出来事は、淡路島神業と呼ばれ、淡路島に埋没されていた国常立神の封印開きであった。この淡路島神業は、白山義高以外にも大本裏神業の中核メンバーである辻天水(ツジテンスイ)にも指示が出されていた。この白山義高の話と辻天水の元井戸神業の話の間とは、食い違うところはあるが、二人によって元井戸が掘られたことは確かである。

その後、御神体は、辻天水によって、淡路島の元井戸から三重県菰野町の北伊勢に移された。辻天水が創設した錦之宮を中心として、武智時三郎や岡本天明(オカモトテンメイ)らとともに北伊勢神業が続けられた。
御神体は、昭和31年、岡本天明が菰野の丘に建てた日之宮(至恩郷)で祭っていたが、昭和33年には、錦之宮に戻されている。

一方、白山義高は、ひたすら元井戸を掘り続け、井戸からは水がでるようになった。白山は、この水が鳴門の渦潮に通じており、世界を清める水と考えていたようである。
昭和30年、白山のもとに、浪上千代鶴(ナミウエチヨズル)という女性が現われた。
白山は、あなたが現われることは以前から神の知らせがあったと言い、元井戸を彼女に託して、淡路島を離れたのである。
淡路島を離れた白山は神戸で病死した。武智時三郎の娘でもあった白山義高の妻は、宗教関係者の来訪を嫌って、イスラエルの遺跡や元井戸関係の資料全てを焼却した。

土佐で生まれた浪上は、もともと霊媒体質で、若い頃から霊的修行を積んでいた。諭鶴羽山での修行中に白山に会ったようである。
彼女は元井戸の傍に社殿を建てて「桃之宮」を創設した。その御神体には、イスラエル遺跡から出土した青玉石が用いられていたという。

このようにして、北伊勢と淡路島の二箇所で、世の「立替立て直し」が行なわれていたのだが、昭和58年11月23日に桃之宮が全焼し、その焼け跡から浪上の焼死体が発見された。これが焼身自殺であったのか事故だったのかは定かではない。

この火事のあと、元井戸は埋められてしまい、現在は住宅地となっている。
この井戸を不用意に埋め立ててしまったため、平成7年(1995年)の阪神淡路大震災が発生したと、まことしやかに噂されている。

淡路島の聖地、シオン山

この「桃之宮」を表面上、引き継いだのが魚谷佳代氏である。
彼女は、「世界の中心は日本、日本の中心は淡路」との啓示を受けてから、家の裏山をシオン山と名付け、天地之元宮(アメツチノモトミヤ)を設けて、祀るようになった。
千ヶ峰、剣山、玉置山という重要な霊場が正三角形を形成するということは良く知られていたが、魚谷氏はその図を見て、シオン山が正三角形の中心に位置すると直感した。

実際に、千ヶ峰と玉置山間は161キロメートル、玉置山と剣山間は161キロメートル、剣山と千ヶ峰間は160キロメートルとほぼ正三角形である。そして各頂点から対辺の中点へおろした線の交点、つまり三角形の重心点はシオン山から3.5キロメートルの位置にあり、ほぼ一致する。
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【図3 千ヶ峰、剣山、玉置山を結ぶ三角形、その重心にシオン山が位置する】

【シオン山】Photograph 2013.9.14

【シオン山頂上】Photograph 2013.9.14

シオン山には、3つの祭祀場が作られている。中央に作られた祭祀場は、縄文時代の祭祀場との説明である。北東の祭祀場は、さざれ石を中心とした祭祀場で、更に古い祭祀場とのことである。このさざれ石は山の中腹から運んできたものである。

【シオン山 南西の祭祀場】Photograph 2013.9.14

【シオン山 中央の祭祀場】Photograph 2013.9.14

【シオン山 北東の祭祀場】Photograph 2013.9.14

【シオン山 北東の祭祀場のさざれ石】Photograph 2013.9.14

そして、彼女は、「桃之宮」にあったダビデの星の像を引き継ぎ、一つの青銅製のダビデの星をシオン山に祀り、六つの石製のダビデの星を富士、沖縄、北海道、滋賀、九州、徳島など日本各地に奉納した。これに関しては、彼女があるキリスト教徒から読み聞かされた黙示録のアジアの七つの教会というキーワードが重要な意味を持つらしい。

そのような彼女のもとには、不思議な人々が、数々の啓示を持って訪れるという。
彼女の活動については、 『魚谷佳代:淡路ユダヤの「シオン山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる、ヒカルランド(2014)』に詳しく書かれている。

※現在、祭祀場は4つになっている。

シオン山のイワクラ

古茂江の遺跡はイスラエル人が造ったものである可能性が高いが、シオン山とイスラエルを明確に結びつけるものは一見したところ何も無いように思える。
シオン山という名称は魚谷氏が啓示を受けて名付けたものであり、証拠たり得ない。
しかし、私は、シオン山の頂上の祭場の中心に据えられている石に注目した。
【シオン山 中央の祭場の鱗状の石】Photograph 2013.9.14

この石の表面には数センチの凸凹状になっており、まるで龍の鱗のようである。流紋や斑紋といった岩の模様ではなく、岩の表面の凹凸が鱗の形状をしているのである。
この山の尾根にも鱗状の石が顔を出しており、ここの地質のようである。おそらく、岩石に対して造山運動が起り、地殻の強い偏圧が加わって変成した変成岩だと思われるが、非常に珍しい。
しかし、この鱗状の石と同じようなものが対馬にある。
和多都美神社(ワタツミジンジャ)の磯良恵比須(イソラエビス)と呼ばれる石である。私は、この石を直接見たことはないのだが、表面に鱗状の亀裂があるということである。そして、この石は、なんと、三柱鳥居の中央に据えられているのである。

三柱鳥居は、上から見ると三角形になるように、三つの鳥居が組み合わさったもので、京都太秦の木島坐天照御魂神社(コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)にある珍しい鳥居として有名である。
【長崎県対馬市の和多都美神社 】ホームページ「玄松子の記憶」より 

和多都美神社の磯良恵比須の石が何なのかについては、野木泰作氏が阿曇磯良(アズミノイソラ)の墓であるとの説を唱えられている。野木氏によると、阿曇磯良は、彦火火出見(ヒコホホデミ)と豊玉姫(トヨタマヒメ)の子供で、鵜茅葺不合(ウガヤフキアエズ)と同一視されており、天津神と海神の間に産まれたために、水から離れられず、牡蠣などが顔面に貼りついてしまうほど長く海中に住んでいる神である。そして、この磯良の御分霊を京都の地に移したものが木島坐天照御魂神社の三柱鳥居の下に積まれた石であるということである。

三柱鳥居の下の水の中に重要な岩を据えるという祭祀形態が対馬から山背国に伝えられたことに異論はない。山背の国には適切な岩がなかったため、小石を積んで代用したのであろう。また、和多都美神社の5連の鳥居は朝鮮半島の巨斉島を向いており、大陸から渡ってきた人々を迎える方向を向いている。これは、この神社を建てた人々が海の向こうから渡来してきたことを示していると考えてよい。

そして、太秦のある山背の国は秦氏の拠点であり、木島坐天照御魂神社は秦氏が建てた神社である。前述したように、秦氏が景教(キリスト教)の影響を受けた失われた十部族であるとすると、三柱鳥居は、神と子と精霊の三位一体という景教の教えを示すためのものであるのかもしれない。

余談になるが、屋久島の益救神社(ヤクジンジャ')にも良く似た石が祀られている。残念ながらここには三柱鳥居は無いが、「益救」という字にキリストの匂いがする。
【屋久島 益救神社に祀られている石 】 写真は小林清明氏から拝借
大陸から対馬に渡り太秦の木島坐天照御魂神社を創建したイスラエル人が鱗状の石を特別視するという祭祀形態を持っており、その祭祀形態が淡路島のシオン山にもあったのならば、淡路島のシオン山を祭祀していた人々もイスラエルの失われた十部族の可能性が高くなる。

そして、磯良恵比須「イソラエビス」は「イスラエル」の転訛なのかもしれない。

【京都市右京区太秦の木島坐天照御魂神社の三柱鳥居】Photograph 2012.10.27

イスラエルの失われた十部族
私は、沼島、淡路島へとたどり着いたイスラエルの失われた十部族は、四国の阿波に渡り、剣山に住みついたのではないかと考えている。

というのも、剣山付近にもイスラエル人の痕跡が色濃く残っているからだ。

徳島県美馬市穴吹町の磐境神明神社(イワサカシンメイジンジャ)に自然の石を積み上げた祭壇がある。石積みは、整形されていない平たい20センチメートル程の石を無造作に積み上げたもので、東西方向に20メートル、南北に7メートルの長方形、高さは1.2メートル程である。
南側に3箇所の入口が開いており、その奥に祠が5箇所設置されている。
イスラエルの元駐日大使であるエリ・エリアフ・コーヘン氏がこの神明神社を訪れて、ユダヤ教の神殿との類似性を指摘している。
【神明神社】Photograph 2010.5.2

剣山に登られた方は共感してもらえると思うが、剣山の山頂は、そこに都市があっても不思議ではないほど広大な平原になっている。そして、山頂から隣の山頂に向って尾根づたいに道が続いている。山頂の都市にイスラエル人が住み、四方八方の都市が連絡道でつながっているという光景が目の前に浮かんでくる。

剣山にソロモンの秘宝が埋められているという話は有名である。
昭和11年に聖書研究家の高根正教は、剣山頂の亀岩の下を150メートル掘って、太陽石や大理石でできたアーチ門、ピラミッド型の空間を発見している。また、昭和25年、元海軍大将の山本英輔は、高根たちの穴を掘り進み、100体以上のミイラを発見しており、剣山の地下には、巨大な遺跡が眠っていることが明らかになっている。

また7月17日には、麓から剣山頂にある宝蔵石神社に御輿が登ってくる。この祭りの様子は、ソロモンの秘宝である聖櫃(アーク)をこの剣山山頂に埋めたことを伝えているのではないかと言われている。聖櫃とは契約の箱でモーゼが神から授かった十戒が書かれた2枚の石板、アロンの杖、マナの壺が収められた箱である。箱の上には純金でできた1対のケルビムが飾られ、箱は2本の棒で担がれて移動したと、旧約聖書に描かれているが、これが日本の御輿にぴったりと合致する。また、この祭りが行われる7月17日は、ノアの箱舟がアララト山の山頂にたどり着いた記念の日である。
イスラエルの失われた十部族は、この剣山で長旅を終えたのではないだろうか。

【剣山】Photograph 2010.5.2

さて、イスラエルの失われた十部族が淡路島にたどり着いた時期はいつ頃であろうか、秦氏がたどり着いた三世紀であろうか、それとも徐福がたどり着いた紀元前三世紀であろうか、私は、もっと以前ではないかと思っている。
というのも、淡路島のイスラエルの遺跡は、秦氏や徐福が遺した遺跡とは異なっているからである。
これは、大陸を通るのに時間をかけたために変質してしまった徐福や秦氏の文化に比べ、淡路島にたどり着いた一行は、短時間で大陸を横断したために、変質を受けることなく、イスラエルの文化を色濃く維持していたと推測したのである。つまり先発の第一次隊である。
これは重要なことである。第二次隊の徐福や第三次隊の秦氏を研究するよりも、沼島-淡路島-剣山ルートのイスラエルの足跡を研究する方がはるかに有意義な結果を得ることを意味する。
おそらく、今後、イスラエル人の失われた十部族が日本に到着していた物的証拠が出てくるのは、この沼島-淡路島-剣山ルートからに違いない。
淡路島のイスラエル遺跡およびその遺跡から持ち出された遺物に対して科学的な調査が行なわれることを切に願っている。

イスラエルの十部族は紀元前670年にアッシリアを脱出した。したがって、先発の第一次隊が日本に到着することのできる最も早い年は、紀元前660年頃と推定できる。
この年は、奇しくも神武天皇が橿原で即位した年でもある。
神武天皇が九州の日向から大和に攻め入って、橿原で即位したという、いわゆる「神武東征」は、イスラエル人の渡来を密かに示した暗号なのであろうか。


 参考文献
1 神戸新聞 昭和27年10月13日、「日本人にもユダヤ人の血?、淡路で遺跡を発見、内藤博士らが調査」(1952)
2 神戸新聞 昭和27年10月15日、「V字石の謎解明へ、イスラエル人遺跡 発掘いよいよ進む」(1952)
3 神戸新聞夕刊 昭和28年2月8日、「淡路にヘブル大学院、イスラエル文化しのんで」(1953)
4 武智時三郎:淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル、淡路古文化開放協會編、洲本(1953)
5 武智時三郎:人間新書(10)日本学とイスラエル、思金書房、東京(1972)
6 柞木田龍善:日本超古代史の謎に挑む、風濤社(1984)
7 魚谷佳代:淡路ユダヤの「シオン山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる、ヒカルランド、東京(2014)
8 ホームページ玄松子「玄松子の記憶」、http://www.genbu.net/
9 平津豊:イワクラ(磐座)学会会報、「淡路島イワクラツアーレポート」(2013)、28号、7-23
10ホームページ平津豊「ミステリースポット」    、http://mysteryspot.main.jp/index.htm

謝辞:
本レポート(論文)を作成するに当たり、適切な助言を賜り、また丁寧に指導してくださった湊格氏、魚谷佳代氏に感謝いたします。
また、玄松子氏、小林清明氏には、貴重なお写真の使用を快諾して頂きました。ありがとうございました。


注意:
本レポート(論文)は、魚谷佳代氏および湊格氏の許可を得て書いています。
また、『淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル』は湊格氏の許可を得て引用しています。
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なお、魚谷佳代氏の意向により、シオン山の場所は非公開となっています。

 
2014年11月21日  「淡路島に残るイスラエルの足跡」 レポート 平津豊
2015年1月17日 一部改正                              
イワクラ(磐座)学会 会報33号 2015年4月1日発行  掲載