播磨神島レイライン

 Report 2016.7.31 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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まずは、地図を見ていただきたい。
播磨周辺のイワクラを探索しているうちに、高砂沖の小さな島を中心としたレイラインが浮かび上がってきたので考察する。

【図1 播磨神島レイライン】

高砂沖の島は、上島(かみしま)という。この上島は神島の意味であるといわれている。
この上島と高御位山のイワクラと家島のイワクラを結ぶと二等辺三角形となる。上島から真北の位置に木庭神社のイワクラがある。高御位山の真南に生石神社の石の宝殿、そして荒井神社がある。
これらのレイラインを「播磨神島のレイライン」と呼び、新しいレイラインとして提唱する。
 レイラインとは、聖地や遺跡が直線上に並ぶ現象をいう。
これは、1921年にイギリス人のアルフレッド・ワトキンスにより提唱され、イギリスの古代遺跡だけでなく、ペルーやメキシコなど世界中の古代遺跡で見られる現象である。
日本においても、写真家の小川光三氏が提唱した伊勢斎宮から、桧原神社や箸墓を通って淡路島の伊勢の森まで続く、北緯34度32分の「太陽の道」。千葉県玉前神社から、寒川神社、富士山頂、大江元伊勢を通って出雲大社まで続く「御来光の道」。淡路島の伊弉諾神宮を中心として、諏訪大社、伊勢神宮内宮、熊野大社、高千穂神社、出雲大社などが夏至や冬至の日の出、日の入りラインに並ぶ「ひのわかみやと陽のみちしるべ」など多くのレイラインが提唱されている。私も六甲山のレイラインについて2013年に提唱した。
六甲山系の磐座〜六甲に走るレイライン〜
 しかし、学術的に、このレイラインを認めるのは少数派に過ぎない。というのも古代人がどのようにして直線性を確保したのかが不明であることと、その直線性は偶然でも発生すると考えられていることによる。
1つ目の理由は、古代人の知恵と技術を過小評価しすぎている。太陽や北極星といった天体を利用すれば、それほど難しいことではない。2つ目の理由は、もっともなことである。たくさんの点から選択すれば、直線や三角形は簡単に成立してしまう。レイラインを扱うには、この危険性を充分に認識しなければならない。

一方、今回の播磨神島のレイラインの特徴は、それぞれのポイントが山の高低差と海原を利用して視認できるというところにある。これならば古代人がそれほど高度な測量技術を持たなくても、直線上に配置させるのに問題はない。そして、それぞれのポイントを強く結びつける伝承や現象があれば、多くの点から図形形成のために恣意的に選択したのではないことになる。
今回の「播磨神島のレイライン」は、その条件を満たしており、このレイラインに古代人の意図や、歴史の謎を解く鍵があると考えている。
それぞれのポイントについて、以下に説明をしながら、そのポイント間の結びつきを検証していく。

 ■高御位山
兵庫県加古川市志方町と高砂市阿弥陀町長尾の境界に高御位山(たかみくらさん)がある。
加古川流域には高い山がなく、この高御位山が最も高い山であり、播磨平野にそびえている。地元では元旦の初日の出を高御位山の山頂から眺めるのが風習となっている。ハイキング登山としても有名な山で、休日にはハイキング客でにぎわう場所である。
【高御位神社】Photograph 2009.9.22
山頂には高御位神社があり、神社の由緒によると、欽明天皇10年に創立、昭和58年に焼失後、再建されている。大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祭神で、天津神の命を受け国造りのために大己貴命と少彦名命が降臨した所とされ、今もなお庶民の崇敬を集めている。
したがって、昔はこの山全体を御神体とする最も古い崇拝形式をとっていたと推測できる。人工的な石組みや穴もあり、古代人がこの山を崇める時に使用した古代祭祀跡と説明されている。
そのさらに信仰の中心は、大国主命が降臨した場所とされている磐座(いわくら)である。もちろんここでは、大国主命は大己貴命のことである。
まるで空中にせり出したかのような岩で、この岩の上に大国主命が座り、眼下を見渡していた姿を想像すると絵になる。まさに神が降臨する場所としてふさわしい。
しかし、この高御位山には、もっと神秘的な物語が秘められている。

 【高御位山の大国主の磐座】Photograph 2009.9.22

高御位山頂には、九鬼家が奉納した。「天乃御柱天壇」と書かれた真新しい石柱が建てられている。これは、『九鬼文書』で万国統治の神とされる天之御中柱天地豊栄大神(あめのみなかはしらあめつちとよさかおおかみ)を祀るという意味であろうか、さらに祭壇下部には、「天君再臨霊界粛清」と書かれている。救世主が高御位に現れることを意味しているように思える。
また、高御位山の西の麓に高御位神宮(神社本庁の神社ではない)という建物があり、九鬼神法の秘儀が行われている。

  【高御位山の「天乃御柱天壇】Photograph 2009.9.22

九鬼一族は、天孫降臨の際の宰相神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、天皇家の祭祀を司っていた藤原家に繋がる熊野別当の宗家である。後醍醐天皇が吉野に落ち延びようとしたとき、幕府側の追っ手から鬼のような活躍で三種の神器を守ったことから、九鬼の姓を賜ったという。
戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉に仕えて、九鬼水軍として活躍する。
この九鬼一族には、『九鬼文書』と呼ばれる謎の文書が伝えられている。
『九鬼文書』は、天児屋根命、天種子命、天中押別命および大中臣牟知麿が神代文字で書き伝えた文書を、藤原不比等が漢字に訳し、藤原家と九鬼家がさらに書き足してきた合作であり、歴史から兵法や芸術に関することまで書かれた古代の百科事典である。
特筆すべきはその歴史書の内容である。宇宙創成から人類史まで全世界規模の驚愕な物語が書かれている。ノアもイエスも釈迦も登場する『竹内文書』に似た万教同根の歴史書で、『古事記』や『日本書紀』と決定的に異なるのは、スサノヲの出雲王朝を正統としている点である。

この『九鬼文書』の中にも高御位山は記載されている。

 「神武五代孝昭天皇御即位成シ給フヤ天中押別命ニ命シ正月高御位山ニ到ラシメ此所ニ鬼門八神鎮靈ノ典儀ヲ攸セシメ幣ヲ立テシム、高御位山ハ皇始祖天御中主天皇ノ岩築陵ノ存スル所ニシテ神國唯一ノ靈峰地ナリ」、
「神武五代孝昭天皇 即位シ給フヤ正月天中押別命勅令ヲ奉ジ 高御位磐境山頂ニ至リ 天御中主大神ノ靈ヲ鎮メ 天照座大神 月夜見大神 健速素戔嗚大神 大國主大神 磐烈大神 根烈大神 豊受姫大神 植山姫大神ノ八神ヲ奉祀シ鬼門八神鎮靈ノ祭儀ヲ修シ天皇茲ニ幣ヲ立テ 天津日嗣ヲ請ケ給ヒ此山ヲ高御位山ト稱ク 以降歴代畏クモ此山ニ典儀幣ヲ立テ以テ天津日嗣ヲ請ケ給ヒシモ異教ノ傅來加フルニ後醍醐天皇ノ事變以降是ヲ廢スルニ至ル」

などと数多くの記載がみられ、ここが天御中主が祀られた山であり、天皇が天津日嗣を請けた場所であるから「高御位山」と名付けられたとされている。

この『九鬼文書』と言えば大本教(正確には大本)との関係も無視できない。大本教は丹波の綾部の霊能力者出口ナオのお筆先と呼ばれる自動筆記と出口王仁三郎の神懸りによって大きくなった宗教団体で、1921年と1935年に政府による宗教弾圧事件が起こり壊滅する。
弾圧後、生長の家の谷口雅春、世界救世教の岡田茂吉、神道天行居の友清歓真、心霊科学研究会の浅野和三郎、合気道の植芝盛平など多くの高弟たちがこの大本教団を離脱して活躍する。新興宗教史の要に位置する教団である。

出口ナオは艮の金神(うしとらのこんじん)の啓示を受け、この神が世に出ることによって世の中が改まるとした。この神は出口王仁三郎によって国常立神(くにとこたちのかみ)と解釈され、地球を創った国常立神は、世界統治に失敗した責任をとって隠れ、世界を救うための救世主としてスサノヲを使わした。というのが、大本教の国祖神隠退再現神話とスサノヲノミコト救世主説である。これは、『九鬼文書』と合致する。

『九鬼文書』の鬼門祝詞には、宇志採羅根真大神(うしとらのこんしんおおかみ)が出現し、「天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神御産霊神(かみむすびのかみ)、伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月夜見大神(つくよみのおおかみ)、建速素戔鳴大神(すさのおのおおかみ)」を統合したものとされる。大本教は、スサノヲを救世主とし、『九鬼文書』は出雲王朝を正統とする。王仁三郎は、神道、道教、回教、仏教、キリスト教などを統合することを目論んでおり、これは『九鬼文書』の万教同根に繋がる。
また、出口王仁三郎は、高御位神宮で九鬼神道のトレーニングを受けたとの噂もあり、『九鬼文書』と大本教がこの高御位山で交差する。

そして、この高御位山に登ると、南に上島が見えるが、出口王仁三郎は、1916年に、坤の金神(ひつじさるのこんしん)が幽閉されているとして、この島の島開きを行っている。
高御位山

   【高御位山から見える上島】Photograph 2009.9.22

■石の宝殿
高御位山から南に真直ぐ視線を伸ばすと日本三奇の一つで有名な石の宝殿に至る。

石の宝殿は高さ約5.7メートル、幅約6.4メートル、奥行き約7.2メートル、重さ推定約500トンもある生石(おうしこ)神社の御神体である。
岩山をくりぬいて造り出した石造物で、背後に四角錐の突起物があり、側面には1.8メートル幅の溝がある。また底の部分も削り込まれていて、溜まった水に浮いているかのように見える。表面にノミの跡も残っており、もちろん人が造った物である。
 【生石神社の参道】Photograph 2015.2.15

 
 【生石神社の拝殿】Photograph 2014.4.13

 【石の宝殿】Photograph 2014.4.13

 【石の宝殿】Photograph 2014.4.13

 【石の宝殿】Photograph 2014.4.13

 【石の宝殿】Photograph 2014.4.13

この石の宝殿に言及した最初の文献は、713年頃に書かれた『播磨国風土記』である。

「大国の里。大国と号くる所以は、百姓の家、多く此に居り。故、大国と曰ふ。この里に山あり。名を伊保山(いほやま)と曰ふ。帯中日子の命を神と坐さしめて、息長帯日女の命、石作の連大来を率て、讃伎の国の羽若の石を求めたまひき。彼より度り賜ひて、御廬(みいほ)を定めたまはざりし時に、大来、見顕はしき。故れ、美保山と曰ふ。山の西に原あり。名を池の原と曰ふ。原の中に池有り。故れ、池の原と曰ふ。原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋のごとし。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもまたかくのごとし。名号を大石といふ。伝へて伝はく、聖徳の王の御世、弓削の大連が造れる石なりといふ。」

つまり、聖徳太子の時代に弓削の大連が造ったと書かれており、弓削の大連は物部守屋のことである。は582年の丁未(ていび)の乱で戦死するので、石の宝殿が造られた時期は、それ以前の古墳時代後期ということになる。

江戸時代に平津村の平野庸脩が書いた『播磨鑑』には、次のように記載されている。

「神代の昔大己貴命天の岩船に乗り此山に止り高御位大明神と號し一神は小彦名命生石の大明神と號す二神御意を會せ五十余丈の岩を切ぬき石屑は一里北にはみくら山の峯に投をくり玉ひ一夜の間に二丈六尺の石の寶殿をつくり二神鎮坐在します寶に石は萬代堅固の姿を示し給ひ」

ここでは、大己貴命と小彦名命が協力して造ったことになっている。

神社の由緒でも、以下のように大穴牟遅と少毘古那が造ったと伝わっている。

「神代の昔大穴牟遅(おおなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰 現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである。時に二神のたまはく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである 。以来此の宮殿を石乃寳殿、鎮の石室と言はれて居る所以である。」

それでは、物部守屋が造った話が、出雲神が造った話に変わったのはいつ頃であろうか。

南北朝時代の1348年に書かれた『峰相記』には次のように記されている。

「次生石子 高御倉陰陽二神夫婦顕給 天人降石社造擬処夜明間押及 返上畢 今有 社大事更凡夫所為非」

天人が降りて石にて社を造ろうとしたところ、夜が明けたために放置して帰ったという話として伝わっている

そして、『万葉集』にも、次のような歌が残っている。

「大汝 少彦名の いましけむ 志都の石室は 幾代経ぬらむ(巻第三の355)」

大汝(おおなむじ)や少彦名がいらしたという志都の岩屋はどれほどの年月を経ているのだろう。と言う意味であり、奈良時代の官吏、生石村主真人(おいしのすぐりまひと)が詠んだ歌である。志都の岩屋が何を意味するのかについては諸説あるが、私は、生石村主真人という名前から、志都の岩屋は石の宝殿であると考える。そして、真人は、大汝と少彦名の出雲神が造ったと思っていたということである。

したがって、759年頃に成立した『万葉集』から、713年に書かれた『播磨国風土記』のわずか50年の間に、物部守屋が造った話が、出雲神が造った話に変わったと推測できる。しかし、物部守屋が造った話をすっかり忘れ去るのに50年はあまりにも短すぎないだろうか。また、『播磨国風土記』にこの地が「大国の里」と呼ばれているのも気になるところであり、さらに深い考察が必要である。

では、考古学的には、どのように考えられているのであろうか。
石の宝殿のある竜山(たつやま)は、1700年前から採石され続け、160箇所以上の採石遺構が存在する。そのうちの31箇所が、2014年10月6日に「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」として国の史跡に指定された。

竜山石は、黄色・青色・赤色の三色の流紋岩質凝灰岩で、古墳時代中期の畿内の権力者のほとんどの石棺に使われ「大王の石」と称された。以後、鎌倉・室町時代には五輪塔や宝塔、江戸時代には城の石垣、明治以降には近代建築物にと、絶えることなく利用され続けている。

これらのことから、考古学者は、この石の宝殿を石槨(せっかく)と考えている。石槨とは、岩をくりぬいて造った棺を納めるための石の部屋をいう。つまり石の宝殿は、古墳時代に「大王の石」である竜山石で石槨を造ろうとしたが、何らかの事情で放置されたと考えられている。この考えは、橿原市の「益田の岩船」という長さ11メートルの巨大な石造物についても同じである。益田の岩船には、棺を入れるための四角い穴が2ヶ所にあけられているが、この穴にひびが入ったため途中で放置されたと考えられている。
そして、このような石槨の完成した姿は、益田の岩船から500メートルしか離れていない「牽牛子塚古墳」に見ることができる。
この説はなかなか有力である。特に、八角形の牽牛子塚古墳に埋葬されているのは飛鳥で大工事を行なって狂心と呼ばれた斉明天皇である。斉明天皇ならば、自分の墓のために石の宝殿を造らせたとしても不思議ではない。
ただし、斉明天皇の在位期間は、皇極天皇としての期間も加えて642年から661年であり、『播磨国風土記』の物部守屋が造ったという記述と矛盾する(守屋は582年に死亡)。
この考古学者の説に、私としては、納得できない部分も残っている。この石の宝殿は、実家の近くであり幼少の頃に何度も通った場所で思い入れが深い。石の宝殿の謎については、さらに検討してから改めて報告したいと考えている。

さて、石の宝殿と高御位山の関係については、まず祭神が大国主命と少彦名命で同じあるということである。
また、『播磨鑑』では、高御位山神社を大国主命の高御位大明神、生石神社を少彦名命の生石大明神と称して、セットとして捉えており、この地域には、男の子が生まれると白い幟を生石神社へ、女の子が生まれると赤い幟を高御位社へ奉納する習慣があったという記録が残っている。

『峰相記』には、次のような話も書かれている。

「次日向大明神者 養老年中彼国石船乗容顔美麗女躰侍女多召具賀古浦坐 即高御倉思食付通給間 生石子御嫉妬依川向居奉給 侍女泊明神等是也 三社本縁憚多上雑説問略也 当国八所大明神是也 此外神名帳面百七十余座見 其本地垂迹難申尽」

日向大明神が侍女を引き連れて石船で賀古浦に上陸した時、出迎えに行った高御倉が心を奪われ、それを見た生石子が嫉妬し、日向大明神を川向こうに追いやり、その侍女たちを泊神社に押し込めた。と書かれており、高御倉神と生石子神を夫婦と捉えている。
 さらに、『播磨鑑』や『生石神社略記』には、大国主と少彦名の二神が国土を鎮めるために石の宮殿を造ったときに「この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、この屑石を人や動物に踏ませじと一里北に在る霊峰高御位山の山頂に整然と捨て置かれて居る。」と書かれており、「鯛ジャリ伝説として伝わっている。掘削により生じた大量の破片を4キロも離れた高御位山の頂上に運んだというのである。
このように、石の宝殿と高御位山の間には、非常に強い関係性が存在する。
■荒井神社
高御位山から南へのラインをさらに伸ばすと荒井神社に至る。
余談ではあるが、この荒井神社は、私の実家の氏神でもあり、大学時代には、夜に無言で行なわれる神事を映像に記録したことがあるほど馴れ親しんだ神社である。また、廣瀬宮司は、古鏡の収集家としても有名である。

この荒井神社は、欽明天皇在位の時、大己貴神を乗せた天磐船が南海から播磨国に至り荒井の浜に鎮座したことに始まると伝えられている。
そして、御祭神は、大己貴神である。高御位山や石の宝殿との関係は成立する。
また、この荒井神社と坂越の大避神社の御神体島である生島(いきしま)が同緯度なのも、何か意味があるのかもしれない。

■家島
2013年に、イワクラ学会の武部正俊氏と岡本静雄氏を誘って家島諸島の西島に存在するコウナイの石の調査に向かった。その帰りに、家島を探索して見つけたイワクラがある。岩石自体には大きな特徴はないが、注目したのはその場所からの風景である。
 【上島遥拝のイワクラ】Photograph 2013.12.08

 【上島遥拝のイワクラから見える上島】Photograph 2013.12.08

なんということであろうか、上島を頂点として左右に他の小島がV字に並んでいるのである。この素晴らしい景色に古代人の意図を感じる。地図に落としてみると、この岩石から上島まで、周りの小島を避けてその間を綺麗な直線が引ける。おそらく、この景色を見るために設定された岩であり、イワクラの可能性が高い。「上島遥拝のイワクラ」と呼ぶことにした。

コウナイの石と家島

「上島遥拝のイワクラ」と「上島」と「高御位山」を結ぶと、二等辺三角形ができる。「上島遥拝のイワクラ」と「上島」の間が16.2キロメートル、「上島」と「高御位山」の間が15.4キロメートルとほぼ等距離である。
さらに、「上島遥拝のイワクラ」から「高御位山」の方位は、60度であり、夏至の日の出の方向である。つまり、夏至の日の朝、家島の「上島遥拝のイワクラ」に立つと「高御位山」の上に太陽が昇る。逆に冬至の日の夕方、高御位山から家島を見ると日が沈む。
これは、偶然では起りえないことである。

この「上島遥拝のイワクラ」から西に700メートル場所に家島神社が鎮座している。式内の名神大社で、神橋まで備えた立派な神社である。神武天皇が嵐を避けて家島に避難したときに湾内が穏やかだったので「まるで家にいるようだ。これからこの島を家島と呼ぼう」といった逸話が残る。そして、境内の看板によると祭神は、大己貴命、少名彦命、天満天神である。天神は菅原道真であり、平安時代に付け加えられた祭神であるので、この家島神社も大己貴命と少名彦命を祀った神社であろう。

 【家島神社】Photograph 2013.12.08

■木庭神社
上島から北に伸ばしたラインが海岸に到達する場所に木庭(きにわ)神社が鎮座している。そしてこの木庭神社は、「上島遥拝のイワクラ」から「高御位山」の線上にも位置する。

木庭神社は、木場の長者三木久左衛門宗栄によって1615年に創建されたとなっているが、神社の前面と両脇に岩群があり、この神社が創建されるはるか昔からの磐座信仰の祀り場であったと考えられる。
そして、何より、この木庭神社からは上島がくっきりと見えるのである。
特に、斜めに立てかけた岩は、人の手が加わって造られたことは明らかであり、その面は、沖の上島を向いており、上島を遥拝するイワクラではないかと考えられる。さらに想像するならば古代には鏡岩として機能し、光などを用いて通信を行なっていた可能性もある。

 【木庭神社のイワクラ】Photograph 2014.5.4

『播磨鑑』には、この木庭神社が鎮座する木場(旧木庭)の地には、八重岩、楯岩、御前岩、八幡岩、岩神、皇子岩などの神功皇后縁のイワクラがあると記録されている。
私は、未だこれらの『播磨鑑』の岩と実在の岩とを結びつけることはできていないが、村の中で祀られている岩大神社のイワクラなどもその一つであろうと考える。岩大神社の御祭神は大物主であり大国主との関係が深い神である。
また、『播磨鑑』の岩の中で、神功皇后が訪れたときに八重岩の上に大己貴命が現れたという伝承があるとも書かれている。
 【岩大神社のイワクラ】Photograph 2016.7.2


一方、木庭神社のご祭神は、天照皇大神、豊受大神、住吉大神、仲哀天皇、神功皇后、應神天皇、大己貴命、少彦名命と多彩であるが、天孫の神の中に国津神の大己貴命と少彦名命が加えられていることは歪である。もともとは大己貴命と少彦名命を祀っていたと考えられるのではないだろうか。
木庭神社も大己貴命と少彦名命を通して高御位山との関係がある。
 【木庭神社のイワクラから見える上島】Photograph 2016.7.2

■上島(神島)
上島は、古くから着目されていた無人島である。
一説によると竜門という岩屋があり、鱗のある龍が出入りするので黒光りしているという。

この上島について書かれた最初の文献は、『播磨国風土記』である。

「家嶋。人民(おほみたから)、家を作りて居めり。故れ、家嶋と号く。竹・黒葛等生ふ。神嶋・伊刀嶋(いとしま)の東なり。神嶋と称ふ所以は、此の嶋の西の辺に石神(いしがみ)在す。形、仏のみ像に似たり。故れ、因りて名と為す。此の神の顔に、五色(いつくさ)の玉あり。また、胸に流るる涙あり。是も亦五色なり。泣く所以は、品太(ほむだ)の天皇のみ世に、新羅の客(まらひと)来朝けり。すなわち、この神の奇偉(たたは)しきを見て、非常之(おもひのほかなる)珍か(うづ)の玉と為(おも)ひ、その面(おもて)の色を屠(くじ)りてその一瞳(まなこ)を掘りき。神、由りて泣く。ここに、大く怒るすなはち暴風(あらきかぜ)を起こし、客の船を打ち破りき。高嶋の南の浜に漂ひ没みて、人悉(ことごと)に死亡(みまか)りぬ。すなはち、その浜に埋めき。故れ、号けて韓浜(からはま)と曰ふ。今に、其処を過(よ)ぎる者、心に慎み固く戒み、韓人(からひと)と言はず、盲(めしひ)の事に拘(かから)はず。韓荷(からに)の嶋。韓人の破れし船と漂へる物と、この嶋に漂ひ就きぬ。故れ、韓荷の嶋と号く。高嶋。高さ、当処の嶋等に勝れり。故れ、高嶋と号く。」

と、記されていて、神嶋は、伊刀嶋(いとしま)の東とある。伊刀嶋がどこを指すのかについては、『播磨国風土記』に、「伊刀嶋。諸(もろもろ)の嶋の総名(すべてのな)なり。」と書かれていることから現在の家島諸島を指しているとされている。家島諸島の東にある島、そしてその読みが一致していることから『播磨国風土記』の神嶋は上島であろうと思う。そして、『播磨国風土記』には、この神嶋に石神があると書かれている。
家島在住の高島一彰氏から、上島には、この『播磨国風土記』の石神らしい岩があるという話を聞いた。
私は、未だこの石神を見ておらず、いつか上島に上陸して確かめたいと思っている。
 【上島】Photograph 2013.12.08

余談になるが、家島諸島の西島に、コウナイの石と呼ばれる霊石がある。このコウナイの石には顔が形作られており、涙を流すという話もあり、さらに数多くの祟り話が伝わっていることから、『播磨国風土記』の石神の記述と非常に類似しているのである。
私は、このコウナイの石が『播磨国風土記』の石神であるという考えを捨てきれないでいる。
私の考えが正しいとすると、『播磨国風土記』が石神の位置を間違って記載したということになるが、実は『播磨国風土記』には、おかしな部分が他にもある。高嶋の南の沖で沈んだ韓国の船の荷が韓荷島に漂着したと書かれているが、家島諸島の高島から室津沖の唐荷島までは12キロメートルも離れており、その間には他の島があるのに不自然である。また高嶋は、他の島よりも高いと書かれているが、高島の107メートルに対して、家島や男鹿島の方が高く、西島には268メートルの山もある。このような誤記もあることから、「所以称神嶋者、此嶋西辺在石神。」の部分が神嶋の西の辺りではなく、神嶋の西方の嶋の誤記である可能性もあるのではないだろうか。
なお、「上島遥拝のイワクラ」と「高御位山」を結ぶ直線と、「上島遥拝のイワクラ」と「コウナイの石」を結ぶ直線は、わずかなズレがあるだけである。
 
 【コウナイの石】Photograph 2013.12.08

話を元に戻す。
前述したように、出口王仁三郎は、1900年の沓島・冠島に続いて、1916年に、この上島の島開きを行っている。
1900年7月4日、大本教の開祖出口なおと聖師出口王仁三郎ら5人の一行は、京都府舞鶴市沖の冠島の老人嶋(おいとじま)神社に参拝し、さらに1ヵ月後の8月2日、開祖・聖師ら一行は冠島に並んで浮かぶ沓島に参拝して、島開きを行なった。冠島は、籠神社の奥宮であり、彦火明命が最初に天降った場所として伝わる。
大本教によると、沓島は、国常立尊・艮の金神(うしとらのこんしん)が、冠島は眷属の神々が落ちて居られた場所である。
そして、1916年6月25日、出口王仁三郎ら60人の一行が、上島に渡り、神事を行なった。このとき王仁三郎は女装したという。長刀で藪を切り開いて作った広場に背負ってきた宮を据えた。石笛を吹き鳴らし、弓を鳴らして四方を清め、神事が行なわれた。大本教によると、上島は、豊雲野尊・坤の金神(ひつじさるのこんしん)が落ちて居られた場所である。
その宮は綾部に持ち帰られ、このことがきっかけとなり、大本教の実権が開祖出口なおから聖師出口王仁三郎に移ったといわれている。大本教にとっても非常に重要な神事であったようだ。
その後、9月8日には、聖師ら一行6人が再び参拝し、10月4日には、開祖出口なおと聖師出口王仁三郎ら一行百数十人が参拝した。上島の神島神社は第二次大本弾圧で破壊されたが、「みろくのおほかみ」の石碑が建立され、現在に至っている。

このように出口王仁三郎は、上島を重要視したのであるが、今回の「播磨神島のレイライン」に気がついていたのであろうか。

■まとめ
ここまで「播磨神島のレイライン」について述べてきた。
神社やイワクラを適当に選べば、直線や二等辺三角形などは簡単に描けてしまう。これだけではレイラインとは断定することはできないので、本レイラインについては、お互いの地点が視認できることと、各地点に共通の伝承が残っていることを重視した。今回はその伝承の中心は大己貴神であった。また、このレイラインが冬至や夏至の太陽の動きと結びついていることも重要である。恣意的に選んだ2点間の直線が冬至や夏至の日の出、日の入りラインと一致する確率は低くく、このレイラインの信憑性を高めている。

では、古代人はこのようなレイラインをどのようにして造ったのであろうか。
まず、高御位山は動かせない。一方で、荒井神社、木庭神社は、意図した地点に設けることが可能である。そして、家島の「上島遥拝のイワクラ」も夏至の日の出方向に高御位山が重なる場所に置くことは可能である。しかし、その位置がさらに上島と2等辺三角形になることは難しい。その条件を満たすためには、上島自体を造らなければいけない。
それは可能であろうか。
巨大古墳を見れば、古墳時代には小山を築くことが可能であったことは明白である。
また、渡辺豊和氏は、『縄文夢通信』の中で、大和三山(畝傍山、香具山、耳成山)の頂点を結ぶと正確な二等辺三角形となり、畝傍山から二等辺三角形の中線を引くと、三輪山中腹の張り出し台地を通り、この中線の角度は61度となり冬至の日の入りおよび夏至の日の出の方向にほぼ一致することを発見したと述べている。そして、その結果、香具山と耳成山は人工造山であると結論付けている。
小山を築いてレイラインを形成するという考え方が日本にあり、その技術は古墳時代よりも古い時代にも存在した可能性が高い。
さて、残る問題は、海の中に島を築くことである。これは、陸の上に山を造ることに比べて難易度は跳ね上がる。
しかし、この瀬戸内海が陸地であった時代を想定すれば、この問題は解決する。
つまり約1万年前であれば、海面は今より40〜100メートル低く、瀬戸内海は陸地であったと考えられる。

上島(神島)は、約1万年前の縄文人が築いた人工山ではないだろうか。

そして、なぜ、山を築くという大工事まで行なって、このようなレイラインを造ったのであろうか、その答えは闇の中である。


■参考文献
1 倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991)
2 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本書記、岩波書店(1994)
3 植垣節也校注訳:新編日本古典文学全集5 風土記、小学館(1997)
4 平野庸脩:播磨鑑、播磨史談會(1909)
5 神栄赳郷:峰相記の研究、郷土志社(1984)
6 藤本浩一:磐座紀行、向陽書房(1982)
7 渡辺豊和:縄文夢通信、徳間書店(1986)
8 三浦一郎:九鬼文書の研究、八幡書店(1986)
9 平津豊:ホームページ「ミステリースポット」、http://mysteryspot.main.jp/index.htm
2016年7月18日  「播磨神島レイライン」 論文 平津豊