古代天体観測装置
―金山巨石群―

 Report 2015.6.20 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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■まえがき

岐阜県下呂市金山町の岩屋ダムの近くに世界的に有名な巨石群がある。
ある意味、日本国内よりも、海外の方が、この巨石群のことをよく知っている。
それは、この巨石群が古代の天体観測装置であるが故である。
日本の考古学者をはじめとするアカデミズムは、これを認めていない。縄文時代に高度な文明があっては都合が悪いらしい。
しかし、海外の学者には、そのような偏見はなく、事実を事実として認める。よって、世界中から研究者がこの巨石群を訪れているのに、日本人は知らないというような状況になるのである。

世界の古代文明は、紀元前9000年頃に農耕が始まって定住化し、紀元前3000年頃から高度な文明が興る。例えば、エジプト文明では、紀元前3800年に鉄器の生産が始まり、シュメール文明では、紀元前3200年頃に文字が発明されている。日本の縄文時代に高度な文明があっても不思議ではない。
なぜ、日本の縄文時代に高度な文明があってはいけないのか、なぜ、縄文人は原始人でないといけないのか、全く以て理解できない。考古学者が認めようと認めまいとも、古代の天体観測装置がそこに存在しており、これは動かせない事実である。
日本に高度な古代文明があったことは、日本民族として誇るべき事柄であり、広く知らしめられるべきである。

この巨石群を研究されているのは、金山巨石群周辺調査委員会の小林由来氏と徳田紫穂氏である。
1998年から17年もの長きに渡り、この巨石群を調査されており、数々の発見をされている。その膨大な研究結果を全て、紹介しきれるものではなく、私がここで紹介するのは、金山巨石群のほんの一部に過ぎないことを断っておく。詳しくは、金山巨石群周辺調査委員会のホームページを見ていただきたい。
金山巨石群と太陽暦

■三ヶ所の巨石群

2015年5月23日に、宮崎みどり氏ご夫婦と一緒に、念願の岐阜県の金山巨石群を訪れた。
私にとっては、イワクラ学の最先端を走っている金山巨石群調査資料室の徳田紫穂さんの活動を肌で感じるために、宮崎みどり氏にとっては、2003年11月にイワクラ学会のサミットで衝撃を受けた徳田さんの解説を現地で聞くためにである。

徳田氏らの研究のきっかけは、岩の表面に彫られた線刻図と同じ形の光が岩屋の中に差し込むことを発見したことから始まったそうである。

金山巨石群は、線刻のある巨石群(北緯35度45分19.09秒、東経137度09分35.33秒)、岩屋岩陰遺跡巨石群(北緯35度45分18.20秒、東経137度09分37.25秒)、東の山巨石群(北緯35度45分17.76秒、東経137度09分58.17秒)の三ヶ所から形成され、それぞれに古代人が巨石群に施した複数の天文観測の仕組みが存在する。

最初に研究が行なわれた線刻のある巨石群では、夏至の日の出、春分の日の出、秋分の日の出を観測する仕組みが発見されている。

縄文時代早期の遺物が出土して、金山町指定史跡でもある岩屋岩陰遺跡巨石群では、冬至の日の入り、春分の日の入り、秋分の日の入りを観測する仕組みが発見されている。

線刻のある巨石群と岩屋岩陰遺跡巨石群は隣接しており、夏至の日の出方向と冬至の日の入り方向が開けた谷あいに存在するが、この場所からは冬至の日の出が観測できない。そこで、その観測場所を探した結果、500メートル東方の山頂の巨石群で観測できることを発見した。これが東の山巨石群である。

【図1. 金山巨石群調査資料室:最強最古のパワーを秘めた古代太陽暦 パンフより】.

■線刻のある巨石群

【研究のきっかけとなった岩石A 東から撮影Photograph 2015.5.23

【岩石A 北から撮影Photograph 2015.5.23

【岩石A 線刻部分Photograph 2015.5.23

夏至の頃、南中する太陽光は、線刻下の岩屋の深い溝へ射し込み、スポット光が現れる。このスポット光は、岩に彫られた形状と一致し、古代人がこのスポット光を観測していた証拠と考えられる。当初、この岩屋は、土で埋まっていたが、徳田氏らが深く掘ったそうである。

【岩石A の岩屋の中から上部を撮影Photograph 2015.5.23
岩屋の上部は、スポット光をコントロールするために、複雑な形状をしている。

【岩石Aと岩石C 南から撮影Photograph 2015.5.23
夏至をはさんだ120日間、山から昇る太陽光は岩石Cの岩の影を岩石Aの岩肌に落とす。この影は、120日の間に徐々に形状を変えていくが、その形も岩にマーキングされており、古代人がこの影を観測したようである。

【岩石C の下部には人が入れる観察場があるPhotograph 2015.5.23
この岩石Cの下部には、人がスッポリ入る場所がある。徳田氏は、古代人が、このようにして、昇る太陽の角度を観察したのではないかと推測している。
【岩石A の下部には間に人が座れる観察場があるPhotograph 2015.5.23
また、岩石Aの下部にも、2つの石があり、この間に座って太陽を観測したのではないかと考えられている。
人の目線を基準に天体を観測するには、観察者を固定するのは非常に重要なことである。
【岩石Cと岩石B 東から撮影Photograph 2015.5.23

【岩石B 東から撮影Photograph 2015.5.23
冬至をはさんだ120日間、2つに割れた巨岩の割れ目に太陽が沈む。

【岩石Bの表面 Photograph 2015.5.23
何か模様が彫られているようだ。この巨石群をじっくり観察すれば、このような線刻が数多く見つかることであろう。

【岩石D 南から撮影Photograph 2015.5.23
この岩の指す方向には、北極星や北斗七星があり、星を観測する岩ということである。人工的に造られた形状のように見える。

■岩屋岩陰遺跡巨石群

【岩屋岩陰巨石群(岩石EFG)を南から撮影Photograph 2015.5.23

【岩屋岩陰巨石群(岩石EFH)を南から撮影Photograph 2015.5.23

【岩屋岩陰巨石群(岩石EFG)を西から撮影Photograph 2015.5.23

【岩屋岩陰巨石群(岩石E)を東から撮影Photograph 2015.5.23
巨石群は大きな3つの岩で構成されているが、冬至をはさんだ120日間は、巨石の岩屋内に太陽の光が差し込むようにその岩の角度が工夫されている。逆に夏至をはさむ120日間は、岩屋内に太陽の光は差し込まない。

【岩屋岩陰巨石群の岩屋の中 スポット光が当たる観察石Photograph 2015.5.23
冬至の60日前の10月23日と60日後の2月19日、スポット光が岩屋内に差し込み、1つの石面を照らす。

【岩屋岩陰巨石群の岩屋の中から上部を撮影Photograph 2015.5.23
岩屋の上部は、スポット光をコントロールするために、やはり非常に複雑な石組みをしている。

【岩屋岩陰巨石群の岩屋の中 スポット光の動きを毎日記録した跡Photograph 2015.5.23

春分の前後2月28日から5月18日の間、または秋分の前後7月26日から10月14日の間、岩屋の奥へスポット光が入り、1日に4センチメートル移動する。このスポット光を記録して、元の位置に光が戻れば1年間、すなわち365日経過したことがわかる仕組みになっている。さらに詳細に観察すると、1年に1センチメートルずれることがわかるようにようになっている。つまり4年に1回の閏年が観察できるのだ。
最近、この閏年をさらに補正する仕組みも備わっていたことを発見したそうである。なんという精巧さであろう。驚愕である。
太陽が一周するのは、365.2422日。これを365日にしてしまうと、1年で0.2422日ずれる。このずれを補正するために4年に1度、1日を足す閏年が行なわれる。これでも1年に0.0078日の差が出る。このずれを補正するために、400年間で97回の閏年と303回の平年を繰り返すようにしたのが、我々が使用しているグレゴリオ暦である。
縄文人は、このグレゴリオ暦と同じレベルの暦を持っていたということである。

この発見について、徳田氏らは、古代人は、必ずこのスポット光を観察していたであろうと考え、それならばこの岩屋の土の下にスポット光を模った石など、測定に用いられた石があるのではないかと推測した。岩屋内を掘りだすと石組みが出現し、その石が測定に用いられていた可能性が示唆された。しかし、そのとき、教育委員会から遺跡内を掘ることを禁じられ、埋め戻されてしまったそうである。
この岩屋岩陰遺跡からは、縄文時代早期の遺物が出土し、1969年に金山町の指定史跡、1973に岐阜県の指定史跡に指定されている。そのために、徳田氏らの行為が禁止されたのである。
自分達の学説と異なる研究は許さないということである。これも日本のアカデミズムの偏見によるものである。
【岩石Jから岩屋岩陰巨石群を撮影Photograph 2015.5.23

岩屋岩陰遺跡巨石群の60メートル離れた場所に大きな岩がある(北緯35度45分17.06秒、東経137度09分35.60秒)。この岩面の角度を天空へ伸ばすと北極星を指す。つまりこの軸を中心にして星は回ることになる。古代人は、このことを良く知っていたようである。

岩屋岩陰遺跡巨石群の岩に数箇所の穴が彫られているが、これを結ぶと大きな北斗七星となる(穴は9個見つかっている)。北極星を意識していたなら、その方向の岩肌に北斗七星を彫っていても不思議ではない。しかし、なぜか逆向きに彫られている。このような裏向いた北斗七星は、世界各地で見つかっているそうである。このことを発見したのは、ドイツ人考古学者のDr.Stefan Maeder氏である。Maeder氏は、巨石の他のくぼみとの関係から北極星は、りゅう座のトゥバーンを指標にしていたのではないかと推測している。
我々の時代の北極星は、こぐま座の星ポラリスだか、北極星は地球の歳差運動によって、時代と共に変わっていく。トゥバーンが北極星であったとしたら、この岩屋岩陰遺跡巨石群が造られた年代は紀元前2800年頃の縄文時代中期となる。
奈良の山添村には天球を地上に模したイワクラが残っているが、この発見者である柳原輝明氏は、山添村の北斗岩(北極星)はトゥバーンであると言っている。また、エジプトのクフ王のピラミッドのシャフト(通気孔)の1つがトゥバーンを指していることは有名である。
これらの一致は、紀元前3000年頃から世界中で高度な文明が興ることから当然のように思える。日本に高度文明が栄えたとしたら、やはりその時代であろう。
一方、樋口元康氏は、金山巨石群の北斗七星の形から紀元前5500年前まで遡るのではないかと推測されている。

また、金山巨石群の成立については、古地磁気調査についても、触れなければならない。イワクラ学会では、お馴染みの調査であるが、古地磁気調査とは、岩から採取した試料の残留磁化の方向を測定する事で、岩が生成時に持つ磁化方向を明らかにするものである。この調査により、岩が火山活動で生成したときから動いたかどうかがわかる。
金山巨石群の岩についてもこの古地磁気調査が行われ、ほとんど全ての岩が移動及び回転を行っていることが判明した。これが直ぐに人が岩を動かしたことを意味するものではない。どこかから岩が転がり落ちてきて偶然に積み重なった可能性があるからである。しかし、少なくとも、自然節理による割れと風化で取り残された残存地形ではないと断言できる。

■東の山巨石群

冬至の頃、巨石のスクレイパーの指す方向から太陽が昇る。という現象や冬至をはさんだ120日間、岩の間に光が差し込まなくなるという現象が確認されている。

このように、3ヶ所の巨石群のそれぞれに古代人が岩に施した複数の天文観測の仕組みが存在する。
その仕組みは、スポット光の動きと暦の関係、岩の面角度と一致する太陽の位置と暦の関係、岩の面角度と一致する星の位置と暦の関係、太陽が形成する岩の影と暦の関係など、実に多彩である。
私は、これらの仕組みを、古代人が設計図を用いて造ったのではなく、天体観察を続けながら相当な年月をかけて、少しずつ岩を削って造っていったのではないかと考える。おそらく、一族の使命として、何世代にも渡って、この巨石の天体観測装置の製作に取組んだ人々が居たのであろう。

■日本の他の巨石群との関係

この金山巨石群と同様の天文観測装置を備えた巨石群が愛媛県松山でも見つかっている。
これを発見したのは松山・白石の鼻巨石群調査委員会の篠澤邦彦氏である。篠澤氏は、2008年1月に偶然通りかかった白石の鼻という場所の三つ石という巨石がオーパーツであると直感され、研究を行なった結果、三つ石のスリット部分に春分秋分の日の入りの太陽が入ることを発見し、さらに三つ石の対岸にある亀石には冬至の日の入りと夏至の日の出の太陽が、三つ石と亀石の間の石列には夏至の日の入りの太陽が入ることを次々と発見された。篠澤氏によって、この白石の鼻巨石群が古代の天体観測施設であることが証明されたのである。詳しくは、篠澤氏のホームページや著書「伊予のストーンヘンジ」を見ていただきたい。

【白石の鼻巨石群 三つ石Photograph 2013.9.22   
右の写真は松山・白石の鼻巨石群調査委員会ホームページより2010年9月24日の秋分の日の入り
春分と秋分の日の入りの太陽が三つ石のスリットに入る。

スリットと呼んでいるのは、三つ石の逆三角形の穴の部分ではなく、その左上の細い隙間である。このスリット通して太陽が見えるのであるが、これがいかに計算されつくした事であるかを、理解してもらうには少し説明が必要である。
遠くの光源と観測者の間に穴を開けた画用紙を置き、観測者が画用紙の穴を通して光源を見るのは簡単である。
しかし、この画用紙を筒に変えた場合、観測者がその穴から光源を見るのは難しい。画用紙の筒と光源を平行にし、そのライン上に観測者が立たないと無理である。三つ石のスリットも石の幅があるので、この筒のようなものである。顔を1つ分動かすと、もう向こう側が見えないのである。そのような条件のライン上に春分と秋分の太陽が入るのである。太陽は当然ながら曲線を描いて沈んでいく。スリットと太陽の沈む曲線が交わったピンポイントの条件を満たして初めて起る現象である。それが、さらに春分と秋分の日という特別な日に起るのである。これは、三つ石が計算されて造られたことを意味する。偶然で片付けることなどできはしない。さらに、この現象をこの方向から観察すればいいとでもいうように、オレンジの線が入った石まで据えてある。観測点が固定されているのは、金山巨石群でも用いられている仕組みである。

【白石の鼻巨石群 亀石Photograph 2014.10.25 
右の写真は松山・白石の鼻巨石群調査委員会ホームページより2009年12月22日の冬至の日の入り
冬至の日の入りと夏至の日の出の太陽が亀石のスリットに入る。

【白石の鼻巨石群 かさね石Photograph 2014.10.25
2014年10月25日の霜降の日の入り
雨水と霜降の日の入りの太陽がかさね石のスリットに入る。

2014年10月に、その篠澤氏らに誘われて、愛媛県の興居島(ゴゴジマ)に向った。篠澤氏が興居島のかさね石に霜降(10月24日)の日の入りの太陽が入ることを発見したので確認に来いというのだ。
海に膝まで浸かって、かさね石を見ると、夕日が見事にかさね石の中心のスリットに入った。スリットを通してみる太陽の光は、なぜこうも美しいのであろうか。素晴らしい光景である。
そして、この現象が霜降という特別な日に起るのであるから、これは、かさね石が計算されて造られたとしか考えらない。
かさね石は白石の鼻から4キロほどしか離れておらず、三つ石、亀石、かさね石はどれも同じ標高の海岸に位置し、それぞれの石質も同じである。この3つの巨石群は、同じ一族が造ったものであると考えて良い。
そして、三つ石が春分・秋分、亀石が冬至・夏至、かさね石が雨水・霜降を示すのであるから、これらの巨石群は暦を観測する装置である。

ここで私が疑問に思ったのは、1年で最も日が短い冬至、最も日が長い夏至、それらの中間で、夜と昼の時間が同じ春分と秋分を観測する装置が巨石に仕組まれている意味はよくわかるが、秋分と冬至の中間が、なぜ霜降(10月24日)なのかである。

24節季で考えると秋分と冬至の中間は、立冬(11月8日)である。夏至から冬至までは約180日、春分から冬至まではその半分の約90日、立冬から冬至まではその半分の約45日である。
つまり、1年を均等に8等分すると、図2右図の青い線と緑の線のように、夏至→(45日間)→立秋→(45日間)→秋分→(45日間)→立冬→(45日間)→冬至(45日間)→立春→(45日間)→春分→(45日間)→立夏→(45日間)→夏至となる。

【図2. 左:金山岩屋岩陰遺跡での太陽高度 右:24節季の図 日付は毎年変わるのでその頃を示す】
.

これについて、徳田氏は明確な答えを用意してくれていた。
「古代人は太陽の高度で1年を認識していた」という答えである。

金山巨石群の岩屋岩陰遺跡巨石群で考察してみる。
この巨石群の場所で最も太陽が低くなる冬至の太陽高度は30.8度、太陽が最も高くなる夏至の太陽高度は77.6度、その中間は54.2度で春分と秋分の太陽高度となる。
さて、この冬至と秋分の中間は42.5度となる。また、春分と夏至の間は65.9度となる。これで太陽高度が4等分された。
つまり、太陽は、30.8度(冬至)→42.5度→54.2度(春分)→65.9度→77.6度(夏至)→65.9度→54.2度(春分)→42.5度→30.8度(冬至)と動く。(図2左図)
この42.5度は、2月19日(雨水)または、10月24日(霜降)にあたり、65.9度は、4月20日(穀雨)または8月23日(処暑)にあたる。

したがって、太陽高度で4等分すると、図2右図の青い線と赤い線のように、夏至→(60日間)→処暑→(30日間)→秋分→(30日間)→霜降→(60日間)→冬至(60日間)→雨水→(30日間)→春分→(30日間)→穀雨→(60日間)→夏至となる。
金山巨石群では、冬至をはさんだ120日間や、夏至をはさんだ120日を観察できるようになっていたが、これが霜降から雨水の間、穀雨から処暑の間にあたるのである。
そして、白石の鼻巨石群でも雨水・霜降を示すかさね石が発見されたことから、篠澤氏は、穀雨・処暑を示すもう一つの巨石群があるはずだと探索を続けられている。

このように金山巨石群と450キロメートルも離れた白石の鼻巨石群との間に共通性があるということは、この日本の縄文時代に広範囲にわたって巨石文明があったことを意味している。

【エジプト 三大ピラミッドPhotograph 1988.4.30

さらに、徳田氏の話では、エジプト文明にも同じ考えが存在するそうである。
アブ・シンベル神殿には、神殿の奥に朝日が差し込む日があるが、それが2月20日頃(雨水)と10月20日頃(霜降)である。
また、ギザの三大ピラミッドの内、クフのピラミッドの参道は、真東から北に14度傾いて造られているが、これは夏至の日の出方向28度の半分であり、4月20日頃(穀雨)と8月20日頃(処暑)に、この方向から太陽が昇る。同じくカフラーのピラミッドの参道は、真東から南に14度傾いて造られているが、これは冬至の日の出方向28度の半分であり、2月20日頃(雨水)と10月20日頃(霜降)に、この方向から太陽が昇る。
これらを考慮すると、日本を含め世界中で同じ考え方を持つ巨石文明が存在した可能性がある。

■まとめ

それにしても、金山巨石群について熱く説明される徳田氏の姿には感動する。
徳田氏らは、17年もの間、毎日毎日、巨石と天体の関係を観測記録し続けられているのである。
その努力に裏付けられた成果は、根拠のない懐疑心を簡単に吹っ飛ばしてしまう。
私の中で、この金山巨石群が天体観測装置であることは、確信に変わった。

最後に、この日に起る金山巨石群の光のショーを見学した。
私が訪れた日はちょうど夏至の30日前であった。
夏至をはさんだ60日間、線刻のある巨石群の上部の岩の隙間から、三角形の岩面に差し込む光が点線状の形を形成する。1日のうち、数分間しか現れないという。
ほんの数分前には何もなかった岩面に点線模様が現れたときには、大声をあげるほど感激した。なんと繊細な仕組みであろうか、

【線刻のある巨石群の岩屋の中に形成される点線状の光Photograph 2015.5.23


4800年前に古代人が残した天体観測装置は、今でも正確に時を刻んでいる。

■謝辞
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった徳田紫穂氏に感謝いたします。

■参考文献

1 金山巨石群調査資料室:日本の考古天文学と巨石群 金山巨石群と太陽暦ホームページ、http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/index.html

2 金山巨石群調査資料室:最強最古のパワーを秘めた古代太陽暦 パンフ

3 篠澤邦彦:伊予のストーンヘンジ、eブックランド社、東京(2009)

4 松山・白石の鼻巨石群調査委員会ホームページ、http://haku1414.com/

5 平津豊ホームページミステリースポット しまなみ海道と松山のイワクラ http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/shimanami/shimanami.htm

2015年6月20日  「古代天体観測装置―金山巨石群―」  平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報35号 2015年12月11日発行 掲載