恵那市笠置山のイワクラと線刻

 Report 2017.11.19 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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■はじめに
2017年4月8日、9日、イワクラ学会の岐阜県恵那市笠置山調査ツアーが19名の参加で行われた。
恵那市のイワクラ見学、笠置山の調査、日天月天での講演会と盛りだくさんのツアーであった。
■御物石器
4月8日は、恵那先史文化研究会の鈴木英幸氏と大島慎一氏に案内していただいて、恵那市南部のイワクラの見学を行った。
まず、恵那から出土した石造物の見学から始まった。
写真は、笠置町河合から出土した縄文時代の御物石器(ぎょぶつせっき)である。このように中央部の凹んだものを御物石器といい、反対に中央部が凸のものを石冠(せきかん)という。いずれも岐阜県飛騨地方で多く出土し、全国出土数の半数以上が飛騨地方に集中している。これらの石造物は、生活道具ではなく祭祀に使用されたと考えられる。それだけ縄文時代のこの地方は、精神文化が発達していたのである。また、石造物の表面には複雑な彫刻が施されており、縄文時代に高度な石の加工技術が存在したことをも証明している。
【御物石器】Photograph 2017.04.08
■岩村の山上祖霊社
最初に訪れたのは、岩村の山上祖霊社である。
山上家は、東濃地方で最古の旧家といわれ、現在の当主は48代目となる。山賊に苦しめられていた山上村の村長が伊勢神宮に参籠して祈ったところ、霊夢があり、宇治橋で出会った武将の助けを得て、山賊を撃退するという伝承が『巌邑府誌(1750)』に書かれているそうである。この武将の名前は加藤景廉(かげかど)で、景廉は源頼朝の旗挙げに参戦し、岩村地方を領地として拝領する。この景廉が腰をかけたと伝わる腰掛岩(別名霊夢岩)が山上家の裏山にある。4本の立石が横一列に並び、その前に1本の立石が立てられている。もちろん人工的に立てられたものである。その横には山神が祀られており、おそらく山上家は山之神の祭祀を司る一族だったのではないかと推測する。
【山上祖霊社の腰掛岩】Photograph 2017.04.08
【山上祖霊社の烏帽子岩】Photograph 2017.04.08

【山上祖霊社の屏風岩】Photograph 2017.04.08

この他にも近くに烏帽子岩と屏風岩がある。巨大な石舞台もあったそうだが、これは破壊されてしまったようである。
この中で屏風岩に注目した。スパッと割られた岩が2つ組み合わされている。人為的なものを感じたので、その断面の角度を測定すると、岩の合わせ目から30度と300度の方向であった。模式図のようになる。夕方を想定すると、この面は北を向いているため通常は夕日が当たることはないのだが、夏至の日の入りの時だけ太陽光が差込み岩面を赤く染めるのではないかと推測できる。古代人は、この現象を見て夏至の到来を知ったのではないだろうか。太陽が最も盛んとなる夏至には、太陽の恵みに感謝する祭りが行われていたと考えられる。この屏風岩は夏至を知らせる装置だったのである。
【屏風岩と太陽の方位図】 平津作図

■鍋山メンヒル
次に向ったのは鍋山メンヒルである。
昔から「馬はげの立石」として知られていた。馬はげとは、馬の形をした木の生えていない場所をいうが、これもメンヒルと関係があるかもしれない。この馬はげについては、西行が「駒形と 山にみ雪の残らばや 旅も長田の 冬の名残に」と詠んでおり、昔から有名な場所であったことがわかる。ちなみに恵那の長国寺には、村人が西行の遺言にしたがって旧中山道中野坂の傍らに西行を埋葬し、五輪塔を建てたとの伝承が残っている。
鍋山メンヒルは、約170センチメートルの2本の立石で、その2本の立石の間には3センチメートル程度の隙間がある。この立石については、恵那先史文化研究会が詳細に調査しており、夏至の日の出の太陽がこの隙間に入ることが発見されている。私もこの隙間を見通せる方位角が60°であることを確認した。つまりこの立石は夏至の到来を告げる装置であると考えられる。
【鍋山メンヒル 西から撮影】Photograph 2017.04.08

【鍋山メンヒル 東から撮影】Photograph 2017.04.08

下の写真は、恵那先史文化研究会が撮影した夏至の太陽である。岩石の隙間から差す太陽は大変美しく神秘的である。
春分・夏至・秋分・冬至という特別な日に岩のスリットを太陽が通るというイワクラは他にもたくさん存在する。日本全国のイワクラで、このような神秘的な光景が人知れず繰り返されているのである。
【恵那先史文化研究会撮影】

また、表面には線刻があるとのことだが、円は確認できるが、三角形は微妙である。それ以外のものは確認できなかった。
学会員が拓本をとっていたので、何かわかるかもしれない。
【鍋山メンヒル 表面】Photograph 2017.04.08

さらに、この立石のそれぞれの石が六角形に面取りされていて、不思議なことに北側の石はいびつな形になっている。
これについて、恵那先史文化研究会は、ある方向を表すためではないかと推測されており、この面方向は南北線で、これを伸ばした先に笠置山が位置するという。
【恵那先史文化研究会資料】

しかし、今回、GPSで鍋山メンヒルの位置を測定すると、鍋山メンヒルに対し笠置山の頂上は、330°の方向、つまり北西の方向の11キロメートル先にあることがわかった。したがって、写真5の図は、面方位は笠置山を向いているが図の方位が間違っているか、それとも面方位は笠置山を向いていないか、ということになる。残念ながら今回はこの面方位を測定しなかった。次回に測定してみたいと思っている。
いずれにしてもスリットに夏至の日の出の太陽が入るように岩石が立てられていることから、鍋山メンヒルは、縄文人が造った人工的な構造物である。

■武並神社と5本の立石
次は、恵那先史文化研究会のご案内で武並に向った。まずは、折方の武並神社である。ここは、拝殿へ登る階段に巨石が鎮座している。この神岩のために神社が建てられたと思うのだが、なぜか拝殿の前に巨石がある。普通は本殿の位置、あるいは本殿の裏に巨石が位置するように神社を設計するはずであり、不思議な光景であった。ご祭神は大己貴尊、少彦名尊、応神天皇で、大己貴と少彦名は磐座にふさわしい御祭神である。巨石の表面には盃状穴が確認できた。
【武並神社】Photograph 2017.04.08

【武並神社】Photograph 2017.04.08

さて、この武並は、田中守平という太霊道の創始者を輩出している。呼吸法や手当てなどの霊子療法で治療活動を行っていた田中は、1916年に「太霊道本院」を創設し、故郷の武並に「恵那山大本院」を建設した。誰でも修行すれば霊力を持てるとした太霊道は多くの信者を集め、国鉄は参拝客のために武並駅を設置したほどであった。当時は、大本とも対抗したようである。田中が死去した後は衰退してしまうが、この太霊道は、現在も気功やレイキの実践者に影響を与えている。この武並には、田中のような霊能者を育む古代の叡智が伝わっていたのかもしれない。
次に武並の5本の立石に案内してもらった。ここは是非とも見たかった場所であった。5本の石が一直線に並んで立てられている。
地元の伊藤利貞氏によると、藤地内の沖の洞には2本の立石と5本の立石があり、2本の立石は1954年に林道開設のために移動されていたが、2010年に復元され、元々は2本の石の間から夏至と冬至の日が昇ったそうである。また5本の立石は、近くの環状列石で受けた太陽エネルギーを中心の石に集めて、そのエネルギーを5本の立石から五つの集落へ送るのではないかと推測されている。
【武並の5本の立石】Photograph 2017.04.08

面白い考え方であるが、真偽はもちろん分からない。太陽エネルギーを持ち出さなくても、この地で五つの集落が集った祭りを行い、その五つの集落の象徴として5本の立石が立てられたと考えればよいのではないだろうか。いずれにしても、5本の立石は珍しいもので、古代人が何かの思いを込めて立てたことには間違いない。
また、この側の石群についても、かなりの確率でストーンサークルだと、イワクラ学会として結論づけた。すぐ近くには、田尻四号墳もあり、この地は、重要な聖地であったと考えられる。
【武並の5本の立石の側のストーンサークル】Photograph 2017.04.08

■日天月天での講演会
2017年4月8日の夜、日天月天の企画で「イワクラ学会のお話会」が開催され、雨が降っていたにもかかわらず、たくさんの方に集まっていただいた。私からは「イワクラとは何か?」という基本的な話をさせていただき、柳原輝明副会長は奈良県の神野山の天球図について話された。会場である日天月天は、元は神社であったとのこと、おかげで素晴らしい雰囲気に包まれて気持ちよく話をさせていただいた。
【日天月天でのお話会】Photograph 2017.04.08

今回のイワクラ学会の笠置山入りは、この笠置山に星座の位置にイワクラを配置している古代遺跡が存在しているのではないかという情報に基くものであったので、講演の内容もそれに関係のあるものになった。今回の講演が、地元の方にとって意味のあるものとなれば幸いである。講演は、ツアーの合間で行ったため、1時間程度の短いものだったが、講演会のあとは、参加された方々とイワクラ学会の会員とで食事をしながら夜遅くまで情報交換が行われた。
■姫栗の岩場
2日目は、昨晩からの雨が残っているので、笠置山の調査は午後にまわして、笠置山のイワクラの見学を行なった。舩橋一華氏の案内で、パーゴルフ場として整備されている姫栗の岩場に向った。
その場に入ると直ぐに線刻を発見した。
【姫栗の岩場】Photograph 2017.04.09

【姫栗の岩場の線刻】Photograph 2017.04.09

恵那に入って、はっきりとした線刻を確認したのはこれが初めてとなる。消えそうになっているようなものを線刻であるとするのには抵抗があるが、これは深く刻まれていて明確である。もちろん人里にあるため、近年に刻まれた可能性は否定できない。
そうこうしていると、この岩石の北側を舩橋氏とイワクラ学会員が掃除をして、有名な線刻を観察できるようにしてくれていた。
【姫栗の岩場 ピコといわれる線刻】Photograph 2017.04.09

多くの盃状穴と太い線が彫られている。この線は太く、先ほどの線刻とは異なる。この違いについて、時代が違うのか、民族が違うのか、目的が違うのか、よくわからないが、彫った道具が違うのは明らかである。
この線刻について、20年前に日本ペトログラフ協会が「ピコ」であると認定している。「ピコ」とはハワイやポリネシアに多く見られるもので盃状穴と盃状穴を線で結んで親子関係を表したものと考えられている。私は、日本ペトログラフ協会に所属していながら、知識不足で故吉田信啓氏の説を明確に否定する根拠は持っていないが、このような線刻については、慎重に判断していきたいと考えている。
いずれにしても、この線刻のある岩石が、大事な石であったことは間違いない。

そして、私は下の写真の場所が祭祀場であると推測した。この中心に座ると周りが岩石で取り囲まれる。そしてこの右の石のアップが次の写真であるが、この石はドリルを使って最近に割られている。おそらく、ここをパーゴルフ場に整備した時に割られたのであろう。この石が割られていなければ、ぐるりと周りを全て岩で囲まれた場所となる。そして、この祭祀場の中心から、先ほどの線刻のある石を見る方向が240度となり、冬至の日の入りの方向と一致する。
【姫栗の岩場祭祀場と思われる場所】Photograph 2017.04.09

【姫栗の岩場 最近に割られた石】Photograph 2017.04.09

冬至の日に、古代人がこの祭祀場に集まり、線刻のある石の向こうに沈む太陽に復活を祈ったという光景が浮かぶ。そうすると、線刻は、太陽への祈りを込めて彫ったものではないかと考えるのである。
■堀田遺跡周辺のイワクラ
次に、舩橋氏に堀田遺跡を案内してもらった。
堀田遺跡は、1910年の姫栗小学校の校舎改築工事で縄文後期から晩期の土器や石器が出土した。その後、1935年の運動場拡張工事中に縄文式土器、打製石斧、磨製石斧が出土した。これらの中に後期旧石器時代の黒耀石製の側刃掻器と槍先形尖頭器、チャートの剥片が発見され、1959年に県の重要文化財に指定さた。
この堀田遺跡は、縄文時代よりも古い旧石器時代から人が暮らしていた土地であることがわかる。
まずはへび石を見学した。
白蛇が住んでいて、護岸工事で動かそうとすると祟りがあってストップしたそうである。
【へび石】Photograph 2017.04.09

『ひがしみの昔話』には、次のような話が書かれている。

2つの石を御神体として白髭大明神の宮が祀ってあり、明治の始めに本殿を椿山へ移すことになり、立石を覆っていた社殿を動かした時、この立石の割れ目から紫色の小さな蛇が出てきて、宮の前の大きな岩の割れ目に入っていった。このへんび様は、毎年6月に入ると、岩の割れ目から横腹を出して、田植の時期を知らせたため田の神様として村人は崇拝した。また、へんび石の上へ登ると罰が当たると言われ、近所のお爺さんがへんび石の上に登ると、その日から急に足の裏が熱くなり、毎日池の水で足を冷やしながら死んだ。
--平津意訳----

この昔話のへんび石がへび石のことと考えられる。
へび石の北側が祭祀の場所であると判断した。この場所から真北に石が並べてありその向こうに笠置山が望めることから、笠置山の遥拝所の一つではないかと考えられる。
【へび石の祭祀場所】Photograph 2017.04.09

【へび石と笠置山の関係】Photograph 2017.04.09

へび石から東に60メートルの場所に原点ピラミッドと呼ばれる三角形の岩石がある。
この原点ピラミッドへ行く途中にも大きな岩がありその表面にラー(丸の中心に点で太陽を意味する)とド(三角形で死や神を意味する)の線刻があるといわれているが、岩石には節理の割れが多く走っており、これを線刻とするのは疑問が残る。
【線刻があるといわれている岩】Photograph 2017.04.09

原点ピラミッドには、説明板が置いてあった。
この土地を熱心に研究されていた方がいて、あたり一帯に説明板などが置いてあったそうであるが、その方が亡くなられた後は放置されているそうである。ここの説明板も既に読めない状態であった。
【原点ピラミッド】Photograph 2017.04.09

【原点ピラミッド】Photograph 2017.04.09

なんとか解読したのが以下の文章である。

説 笠置山三角錐ピラミッド岩群の原点ピラミッド岩
平成八年六月三十日当園を訪れ、恵那先史文化研究会□□□□□吉田信啓氏によって□□が笠置山三角□□ピラミッド岩□の”原点”ピラミッド□□□が確認されました。笠置山□□□□□□□□□□に見□ている笠置□□□を南側に□□状に並ぶピラミッド岩□□□であります。
これについて□□□□□□□□イタリアのトリノ市で開催された国際岩石□□会において日本代表でありロックアート□□である吉田信啓氏により発表され、フランス、アメリカ、ロシア等24カ国の□□学者を驚かせたことで一躍有名になりました。
以後、日本においてもテレビ、新聞、雑誌等で□□報道されたことはご承知のとおりです。
いずれにいたしましても、当地の笠置山ピラミッド岩群の発見□□そこに□された数千年前のペトログラフ□□(先史時代からの岩刻文字や□□とあいまって今後、日本の古代□□論のこと、世界の古代史□□も見な□□□□新しい課題を提起することになりました。
なおこの岩は長い年月の中で風化が進んだ上、一部を田園の石垣材料に□取られたためにその姿を著しく損傷していますが、ピラミッド岩の原形は依然として今に留めています(文責園主)」

故吉田信啓氏がこの岩が笠置山のピラミッド岩の原点であると判断したと書かれている。
この後、笠置山のピラミッド岩を見たが、それと比べると形はいびつである。説明板では、風化と破壊により損傷していると述べられているが、その真偽はわからない。ただし、その形が笠置山の稜線と似ていることから、笠置山を意識した岩であったのではないかと考えられる。
この岩よりも注目したのは、20メートル北にある石組であった。大きな台座の上に石がのせてある。裏から見ると石組みは複雑である。人工の石組みと考えられるが、古墳だろうか、いつの時代のものであろうか、興味が湧く石組である。
【石組み】Photograph 2017.04.09

【石組み】Photograph 2017.04.09

この北東20メートルの所に、2本の立石が立っている。この立石が前述した昔話の白髭大明神の宮があった立石と考えられる。
この2本の立石は、恵那市の史跡第14号に指定されている。
【2本の立石】Photograph 2017.04.09

『ひがしみの昔話』には『姫栗のむかし話』を参考として、次のように説明されている。

2つの石はもともとは、てのひらを合わせたように、2つ並んで立っていたものである。これをメンヒルという。今から1万年ぐらい前に立てられたもので、夏至の日の太陽がこの石と石の間から昇る。夏至の朝、太陽神を祭る宗教的な行事が、この場所で行われたのであろう。

2本の石の間があまりにも広いので、方位角を測るのを忘れてしまったが、前述した鍋山メンヒルと同じ目的の遺跡がここにあるということになる。
最後は、立石から北西に40メートルの場所にあるストーンサークルである。
【環状列石】Photograph 2017.04.09

中心石は東側が折れたような形をした特徴のある立石である。その周りに12個の石が並べられ、さらに2~3メートル離れた場所にも石が円形に並べられている。つまり2重円が造られている。
形状が秋田県大湯環状列石の日時計と呼ばれている遺跡に似ている。大湯環状列石と同じ思想に基づくものなら、置かれた石の方位に意味があり季節や時間を知らせていたことになる。これは正確に測量すればわかるが、今回はその時間がなかったので断念した。
この遺跡が人工であることは間違いがないが、これほどのものがなぜ、先ほどの2本の立石と同じように史跡に指定されていないのかということになる。ここは堀田遺跡の調査が行われているのであるから考古学者がこれに気が付かないわけがない。もちろん大湯環状列石においても、川口重一が1956年に太陽観測施設だと発表した当時の考古学者の反応は冷ややかなものであったので、考古学者が無視した可能性も考えられないことはない。
一方、ここで気になるのは、先ほどの原点ピラミッドの看板を立てた研究者である。その研究者が大湯の日時計を真似て復元した、あるいは創造した可能性も考えられる。イワクラ学会としては、中心の石は縄文時代からの遺物であろうということで一致したが、それ以外については結論が出なかった。堀田遺跡の調査報告書を読めば何かわかるかもしれない。
なお、堀田遺跡は私有地なので、無断で立ち入らないように注意されたい。
■笠置山頂上のイワクラ
いよいよ笠置山に登る。山頂から500メートル下に寺屋敷跡と呼ばれる場所がある。
『濃飛古遺史』に、この平坦地には井戸や畑があり俗人はここに立ち入ることができなかったと書かれているそうである。
ここに巨大な四角錐の岩石がある。節理の筋がきれいに走り、東面はその節理に添って割れているが、それ以外の面は節理に逆らって整形されており人造と考えられる。形は複雑で、四角錐の下部が面取りされている感じである。造った目的はわからないが、存在感のあるイワクラである。
【寺屋敷跡のピラミッド岩】Photograph 2017.04.09

【寺屋敷跡のピラミッド岩】Photograph 2017.04.09

笠置山の山頂には笠置神社の奥宮がある。山の頂上とは思えないほど広い平坦地に巨大な社殿が建っている。社殿の奥に大きな岩盤があり、この岩盤が御神体の磐座である可能性がある。
【笠置神社奥宮】Photograph 2017.04.09

【笠置神社奥宮の岩盤】Photograph 2017.04.09

中野方町に鎮座する笠置神社の由緒には、次のようにあり、元々は、舟伏山と呼ばれていたが、花山天皇がこの山を見て形が都の笠置山に似ているので、「眺めつつ 笠置の山と名付けしは これも笠置くしるしなりけり」という和歌を詠み、笠置山と呼ばれるようになったといわれている。

寛和二年創祀。昔時中野方村の中仙道たりし頃、花山院仏道に帰入ましまして、東国を廻り給ふ際、茲に玉杖を休め給ふに、南なる高岳の岩焼として雲に聳へたるは宛然として都の笠置に彷彿たりと叡覧ありし即ち、山の名を笠置と号け其の頂に一社を設くべく宣ひ、「眺免御、笠置の山と号けしは、是も望みおく、しるしなりけり」と御詠あらせられ、其の時創めて一社を建立せんと縁起書に見ゆ。降て文化五年に至る八百余年の久しき間殿宇零落屡々修繕造営ありしなるべし。と雖も、今得て之を詳にせず。而して此年造換の有し事初めて知る。其れより又降って安政元年山火に遇ひ、社殿焼失し、之が為に多くの古文書等を失ふと謂へり。之に依りて又造営の挙あり、明治四年十一月郷社笠置神社となる。又、現在の本社を前社と称へたるも、今は山頂の宮を奥社と称ふ。抑も笠置神社には往古より百余個の寶鎌あり。其の模造するもの又数十あり。若し晴雨不正の侯に遭遇すれば、遠近の農民来て其の鎌を請ひ晴雨を祈るに果たして霊験あり。依りて各地方の農家一般の崇敬最も厚し。
―岐阜県神社庁ホームページより

御祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、火産霊命(ほむすびのみこと)、水分神(みくまりのかみ)、誉田別神(ほむたわけのかみ)である。
この中で、笠置神社の性格を示すのが水分神であり、水源を意味する神名はこの神社が雨乞いの神社であることを示している。
これとは別に、火産霊命にも注目したい。火産霊命は、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)のことである。火之迦具土神が伊邪那岐命に十拳剣で殺されたとき、その血から甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)が生まれるが、『古事記』には次のように書かれている。

次に、御刀の本の血を著(あらは)し、亦(また)湯津石村(ゆついわむら)に走就(たばしりた)り、成りし[所の]神の名を甕速日(みかはやひ)の神、 次に樋速日(ひはやひ)の神、次に建御雷之男(たけみかづちのお)の神、亦(また)の名を建布都(たけふつ)の神【布都の二字音を以ちてす、下に此れ効ふ】亦(また)の名を豊布都(とよふつ)の神といふ。【三はしらの神】

私は、「湯津石村」がイワクラに関係する記載であると考えており、火之迦具土が笠置神社の祭神に加えられているのには、意味があると推測する。
そして、この奥宮の直ぐ東には絶景が広がっている。巨大な岩が屏風のようにそびえ立っているのである。写真では迫力は伝わらないと思うが、とにかく凄い光景である。この下には天然記念物の光苔が繁殖している岩屋がある。
【屏風岩】Photograph 2017.04.09

この笠置山の山頂付近には人工の痕跡のある岩がたくさんあった。
神社から100メートル南西のところに、楔形文字のイル・ガ・ガ(雨を我らにと祈る)が彫られているといわれる岩がある。深い線刻と盃状穴がたくさん彫られている。楔形文字のイル・ガ・ガのような形は見つけられなかったが、古代人が岩面に彫ったことは確実である。
【イル・ガ・ガが彫られているといわれる岩】Photograph 2017.04.09

また、神社から60メートル北東の大岩と大岩の隙間に、かなり大きな盃状穴が彫られている。これと同じような大きさの盃状穴は、岡山の牛窓と白石島で見たことがあるが、大変珍しいものである。さらにこの盃状穴は縦の岩面にエッジを持った形に彫られていて、これを彫るには相当高度な技術が必要である。
【大きな盃状穴】Photograph 2017.04.09

盃状穴は、石を少しずつ削って窪みを作ったもので、再生や不滅の信仰として世界中で見られる。日本では縄文時代から磐座に彫られていたものが、古墳時代に石棺に彫られるようになり、昭和初期まで神社の手水石や灯篭等に彫る事が続いていた。子孫繁栄や死者蘇生を願ったものと考えられているが理由は明確ではない。
そうこうしていると、この盃状穴が彫られた大岩の別の面に、「目」が彫られていると岡本静雄氏が言い出された。なるほど「目」である。さらに大島静香氏がその中に三角形を見つけられた。大勢で行くと、このようにたくさんの発見があって、楽しさが倍増する。
【目のある岩石】Photograph 2017.04.09

【三角形の線刻】Photograph 2017.04.09

【物見台】Photograph 2017.04.09

■オリオン座を地上に写したイワクラの調査
1994年に山口儀仁氏と山田鉦二氏によって笠置山の南北線上の200メートル毎に5個の三角錐ピラミッドが発見された。
それ以後、恵那では日本ペトログラフ協会の調査が行なわれ、恵那先史文化研究会が発足するなど、地元での活動が行なわれた。舩橋氏から見せていただいた当時の研究記録の中に地図の上に星座を描いた図があった。このような情報は初見であった。
奈良県山添村には、星座を地上の岩石で模したイワクラ群があるが、これと同じものが恵那にも存在する可能性がある。今回の調査ツアーの最大の目的は、このイワクラ群が本当に星座を写しているか確認することである。
オリオン座の3つ星(Mintaka、Alnilam、Alnitak)から調査を開始した。三角錐の岩石が道を挟んで2つ並んでいる。その中間の位置に小さな三角錐がありこれが3つ目である。道路工事の時に埋まってしまったと考えられる。
最も北にある三ツ星の一つ(Mintaka)は、日本ペトログラフ協会により同心円三個を三角形に配置した「ヒミカ」という文字が彫られているとされた。盃状穴はたくさんあったが、今回は測量に夢中で、そのようなものは目に入らなかった。
【三ツ星(Mintaka) ヒミカ石】Photograph 2017.04.09

南の三ツ星の一つ(Alnitak)にも、盃状穴があった。前述したように、盃状穴が彫られているということは、人がこの岩石に何らかの思いを持って接したという証拠である。
【三ツ星(Alnitak)】Photograph 2017.04.09

ここで、三角錐の岩石について考えてみたい。これらはピラミッド石とも呼ばれているが、エジプトのピラミッドは四角錐であり異なる。
笠置山は、濃飛流紋岩であり、その主要部を占める溶結凝灰岩には節理も見られる。節理で割れた立方体の岩石の角を頂点として三方向を図のように切り出すと三角錐が形成される。このようにして人工的に三角錐の岩石が造られたと推測する。
【三角錐の造り方】

一方、これならば、節理で割れた立方体が地震か崖崩れか何かのはずみに自然に方向を変えて、角が頂点となるように傾き、周りが埋まって三角錐が見えているだけということもあるかもしれない。
しかし、この三角錐の岩石については、恵那先史文化研究会がトレンチ調査を行っているのである。その結果は、鈴木氏によると、三角錐の底面が現れ、石が詰められていたということであった。このことは、三角錐の岩石が人工に整形された岩石でこの場所に置かれたことを意味するのである。
【恵那先史文化研究会の調査の様子】

さて、他の星はどこであろうか、二等星の三ツ星よりも明るい一等星(Rigel)は、オリオンの左膝に位置するが、舩橋氏の案内で、直ぐに見つかった。三角錐ではないものの、祭壇のような石組みもあり、この岩石であると決定した。
【オリオン座(Rigel)レーザ測量中】Photograph 2017.04.09

また、オリオンの右肩にあたる一等星(Betelgeuse)も舩橋氏の案内でわかった。これは巨大な岩石で、冬の大三角を形成する星にふさわしいものであった。
【オリオン座(Betelgeuse)】Photograph 2017.04.09

一方、武部正俊氏を先頭に、オリオンの右膝の星(Saiph)を探して山の中に分け入ったが、決定的な岩石を見つけることはできず、とりあえずそれらしい岩石を暫定して時間切れとなった。
また、オリオンの左肩にあたる(Bellatrix)を探した結果、三つの候補があった。最終的には、大きな盃状穴らしきものが3つ並んだ岩石を選択したが、この岩石は最も星座の形に近い位置にあり、本末転倒の危険を孕んでいるので注意しなければならない。岩石は山の中にたくさん転がっている。古代人が星を写すために作った岩石と断定するには、形の特徴、大きさ、線刻や祭祀跡など、他の岩石と区別できる特異性を持っていなければならない。そうでなければ、目的とする形となるように適当に岩石を選べは何でもできてしまうからである。
【オリオン座(Bellatrix)】Photograph 2017.04.09

図1は、今回の調査ツアーのきっかけとなった恵那先史文化研究会の図である。
図2は、恵那先史文化研究会の図に星座を重ねたもので、ポイントと星座がぴったり一致している。
図3は、今回のイワクラ学会の調査結果の図である。
図4は、イワクラ学会の調査結果と恵那先史文化研究会の図を重ねたものある。
恵那先史文化研究会の図が正確ではないことがわかる。特に、Betelgeuseの位置が大きく違っている。
一方、図2において、恵那先史研究会の図と星座がぴったり重なるのはどういうことであろうか。
恵那先史研究会の図は、岩石の位置を表したものでなく、オリオンの三ツ星を中心として、地図の上に星座を表示させて、これから調査する場所をポイントとして表したものだったのではないだろうか。
三角錐の特徴的な三つの岩石が並んでいて、その岩石が人造であるならば、オリオン座を模ったものではないかと誰しもが考えるものである。
恵那先史文化研究会は、そのような仮説を立てて調査を始めたが、その調査は未完に終わったと考えられる。それゆえ、恵那先史文化研究会のこの図が世に出なかったのではないだろうか?
【図1.恵那先史文化研究会の図】

【図2.恵那先史文化研究会の図に星座を重ねる】

【図3.イワクラ学会の調査結果の図】

【図4.恵那先史文化研究会の図とイワクラ学会の調査結果の図を重ねる】

今回のイワクラ学会の調査の結果は、岩石の配置とオリオン座の配置にズレがあること、Saiphは暫定を採択するとさらに大きくズレてしまうため探し方が不十分であった可能性がある。
笠置山の岩石配置は、正確なオリオン座ではないという結果であったが、私は、ここ笠置山に岩石を用いてオリオン座が模られた可能性は否定できないと考えている。
まず、多少のズレは許されるだろうし、縄文時代の星座配置との比較検討も未だ行なっていない。
さらに、山添村の神野山の例にならえば、古代人がオリオン座を岩石で配しているなら他の星座も配しているはずである。これを探し出せれば、この岩石配置がオリオン座であると明確に結論付けられるであろう。
この星座を、探し出すのは地道な努力が必要であり、地元の人でないとできない。地元の研究者に期待する。
私の頭の中にもいろいろな仮説が浮かんできたが、現時点では全て推測に過ぎない。そのなかでもグリーンピア恵那のある山が気になっている。
なお、今回の調査は、イワクラ学会員の平津豊、増谷年彦、坂本雅之、黒田亮介、武部正俊によって実施され、その詳細な調査報告は、イワクラ学会の会報40号で発表されている。
■線刻について
オリオン座の三つ星にあたるヒミカ石から南への道を200メートル登ると、岩群にたどり着く。
ここは、ヒミカ石をオリオンの三つ星と仮定した場合、バラ星雲の位置にあたるが、バラ星雲は肉眼で見ることはできないので、古代人がバラ星雲を選んでここに岩石を配置したと考えるのには疑問が残る。
看板には「水を我らにと祈る線刻」があると書かれている。
【線刻のある岩】Photograph 2017.04.09

【線刻】Photograph 2017.04.09

【線刻】Photograph 2017.04.09

確かに、岩の表面には、深い直線、四角、二重円などたくさんの線刻があった。
日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏はこれを主にシュメール文字として解釈をしているのであるが、この考えは強引ではなだろうか。私もシュメール人が日本に来たと信じているし、日本ペトログラフ協会にも在籍している。
しかし、これらの線刻は、二万二千年前の氷河期にたくさん描かれた岩絵にもみられるものである。
南アフリカのケープタウンのディープクルーフ遺跡において、8万5千年前~5万2千年前の地層から模様が彫られたダチョウの卵の殻が発見されている。この線刻が、現在知られている最も古い図形を用いた線刻である。この後、アフリカからヨーロッパに広がった人類は、4万年前~1万1千年前まで続いた氷河期を迎える。そのヨーロッパの洞窟の中で、数多くの芸術的な岩絵が描かれる。オ-リニャック期(4万年前~2万8千年前)には、エル・カスティージョの赤い円盤やホーレンシュタイン・シュターゲルのライオンマンやショーヴェ遺跡など、ヨーロッパ最古の岩石芸術が現れた。グラヴェット期(2万8千年前~2万2千年前)には、ドルニ・ヴィエストニッツェ遺跡のようにロックアートからポータブルアートが現れ、北極圏の氷床が拡大したためヨーロッパ北西部から南方への大移動が始まる。ソリュートレ期(2万2千年前~1万7千年前)には、集団間の交流が盛んになり社会構造も複雑となり芸術の爆発が起こり、複雑な線刻画が描かれる。マドレーヌ期(1万7千年前~1万1千年前)は、氷河期が終焉し、ヨーロッパ全体に人類が広がるとともに、精巧で緻密な岩窟絵が描かれる。アルタミラ洞窟のバイソン、ルフィニャック洞窟のマンモスなどである。この後、洞窟を出た人類は洞窟絵も描かなくなる。これらの洞窟壁画と呼ばれる絵は、手形や動物の絵が多いが、線刻も描かれている。このヨーロッパの線刻について、ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーは32に分類しており、それは円、十字、三角、四角、Y字、格子、渦巻きなど単純なものであり、「文字」という段階に至らない「記号」と解釈されている(表1)。
そして彼女は、「文字」を「耐久性のある面に書かれた、視覚的で慣習化された記号を利用する、相互コミュニケーションのシステム」と定義している。
表1.ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー『最古の文字なのか?』、文藝春秋(2016)より

一方、吉田信啓氏が提唱されているシュメール文字にも、円、三角、渦巻きといった単純な形が存在する(表2)。例えば岩に円が線刻されていたとして、それを直ちにシュメール文字として解釈していいものだろうか、という疑問がある。シュメール文字が成立したのは5千年前~4千5百年前である。それより古い日本の縄文時代にヨーロッパの線刻のような「記号」が存在したことは否定できないであろう。私が恐れるのは、シュメール文字に固執するあまり、シュメールよりも古い記号の線刻をシュメール文字として解釈したり、線刻でないものを無理やり線刻と判断していないかということである。
表2.吉田信啓氏提唱のシュメール文字 恵那先史文化研究会の資料より

笠置山に線刻が存在することは確かである。しかし、その線刻は、シュメール以前のものであり、「文字」ではなく「記号」の域を出ないものであった可能性もあるのである。
線刻の存在は古代人が岩に細工した一つの証拠になるが、私は、岩自体に人工の痕跡を見つけることを研究対象としている。線刻がなくても重要な岩石の方がはるかに多いのである。線刻という一つの事象にとらわれずに広い視野を持って研究を行っていきたいと考えている。
■あとがき
この帰り道、巨大な岩を見つけ何人かが山の中に入っていった。巨大な岩が山の斜面に突き出ている。こういうのを見つけてしまうのがイワクラ学会なのであるが、人工ではないかと考えられる石組みも見られた。その形は、まるでスターシップのようであった。

【スターシップのような巨石】Photograph 2017.04.09

【スターシップのような巨石】Photograph 2017.04.09

【スターシップのような巨石の下部】Photograph 2017.04.09

縄文時代に超テクノロジーを持った一族が巨大なスターシップに乗ってこの笠置山に降り立ち、ピラミッド石などを造った。そんなロマンを掻き立てる巨石であった。
■追記
 
後日、吉田信啓氏の本の中に次のような記述を見つけた。

2007年4月に井上淳子医師のもとを訪れた沖縄の友人の仁井田りち医師に「笠置山にはオリオン座の星座配置になった盃状穴のあるピラミッド岩があるようなのでそれらを探索したい」と要請され、井上医師は山口氏や楯氏らの案内で山中を調査、ピラミッド岩の上方で、記紀などに伝えられる磐船とおぼしき巨石を発見した。さらには同年10月14日に、元建設省技官で恵那市在住の中廣三男氏やダウンジング法による探索に詳しい友人らの協力を得て笠置山を探索したところ、三角錐ピラミッドがあり、その表面の中心に8ミリ~1センチ2ミリの球状の突起がある盃状穴や同心円が多く彫られているのが見つかった。

 ここに出てくる「磐船とおぼしき巨石」が我々が見た「スターシップ」に違いないであろう。
また、この井上氏の調査の後、吉田氏自身も恵那先史文化研究会とともに調査したと記載されているが、線刻の事しか書かれておらず、オリオン座の星座配置についてどのような調査が行われたかは記載されていない。また、オリオン座の星座配置を思いついた人が仁井田氏なのか、それとも既にうわさになっていて、仁井田氏がそれを聞きつけたのか、この報告だけではわからなかった。
 
 
■謝辞
 本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった恵那先史文化研究会の鈴木英幸氏、大島慎一氏に感謝いたします。
また、今回は、笠置山の日天月天を営まれている舩橋一華氏の全面的なご協力により、非常に有意義な調査ツアーとなりました。収集された資料の提供、ツアーの宿泊、講演会の開催など、そのご尽力に感謝いたします。
 
 
■参考文献
 
1 恵那先史文化研究会:見学案内図などの各種資料
2 恵那先史文化研究会:恵那地域岩刻文様分布図(吉田信啓確認)、(1996)
3 伊藤利貞:恵那市広報誌、広報えな2016.9.15版(2016)
4 JAひがしみのホームページ、ひがしみの昔話
http://www.ja-higashimino.or.jp/book/
5 岐阜県神社庁ホームページ
http://www.gifu-jinjacho.jp/
6 倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991)
7 山本健造:明らかにされた神武以前、飛騨福来心理学研究所(1992)
8 ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー、最古の文字なのか?、文藝春秋(2016)
9 吉田信啓:超古代・最古・最高・最尖端文明は縄文日本だった!、ヒカルランド(2013)

2017年11月19日  論文 「恵那市笠置山のイワクラと線刻」  平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報40号 2017年8月7日発行 掲載