越木岩神社の甑岩

 Report 2013.11.23 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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私は、イワクラ(磐座)を主に探索している。
私の住む兵庫県において、磐座を境内に祀る神社の中で、最も有名な神社は、六甲山の東に鎮座する越木岩神社である。
何度も訪れている神社であるが、これまで取り上げたことがなかったので、今回はこの越木岩神社と境内に祀られている磐座について書いてみる。

場所は西宮市甑岩町5−4(北緯34度45分30.42秒、東経135度19分19.73秒)、周りの交通量も多く住宅が密集する地域の中に、越木岩神社の神域がある。
飯森宮司によると、東隣の夙川学院も、もともとは神社の敷地であり、磐座もあったそうである。また、北の北山公園を含む、非常に広範囲な神域を形成していたようである。

ご由緒には次のように書いてある。

御由緒 当社は東六甲山麓唯一の霊地で、天然記念物の森に鎮座します霊験あらたかな神社である。

創立不詳といわれるくらい由緒深く、甑岩(コシキイワ)を霊岩とし、今なお全国的に信仰を集めている。また、古代信仰の磐境(イワサカ)・磐座(イワクラ)祭祀と呼ばれ学術上貴重とされている。

今を去る、千数百年前の延喜式神名帳に大国主西神社が記録されているが、当社であろうと思われる。正保年間(西暦1644年頃)に社殿が再建され、明暦2年(西暦1656年)の8月16日に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称した。
以後、数回社殿は修復されたが、現在の見事な片削破風羽流造の御本殿は昭和11年に、また、拝殿は昭和58年に御造営となったものである。
歌謡に『杜のふもとに甑を立てて、招く湯の里ヨホホイ越木岩』とうたわれた。越木岩・苦楽園・夙川・鷲林寺・柏堂という関西の高級住宅地の産土神(ウブスナカミ)としてあがめられている。
     -----神社パンフレットより-----

【越木岩神社】Photograph 2013.316.
【越木岩神社 本殿】Photograph 2013.316.
越木岩神社から南東に2.7キロメートルの所に「十日えびす」で有名な西宮神社が鎮座している。えびす大神を御祭神とする神社である。「えびす」は、七福神の一柱で、記紀神話以外の外来神、蕃神である。本来は、時々海岸に漂着するクジラを寄り神として信仰したものではないかと考えられるが、時に、海に関係の深い大国主の息子の事代主神(コトシロヌシ)や伊弉諾の息子の蛭子(ヒルコ)の別名とされることもある。

越木岩神社は、この西宮神社からえびす神を勧請しているが、えびすに蛭子の字をあてている。

西宮神社は、広田神社の摂社である南宮社の庇を借りて大きくなった神社である。この神社は、大国主西神社と呼んでいたが、末社である大己貴社が大国主西神社であるとする説が強まり、明治3年に社名を「西宮神社」に改め、大己貴社を大国主西神社としたという。
延喜式神名帳の菟原郡の大國主西神社の項目には、「明細書に縣社西宮神社境内大國主神社縣社とあり」との注釈があり、西宮神社の境内に大國主神社があると記載されている。しかし、神名帳の大國主西神社は菟原郡としており、西宮神社のある武庫郡ではない。これについては、昔は菟原郡と武庫郡の境の夙川がもっと東を流れていた可能性もあり、何ともいえない。

一方、写真は、飯森隆年宮司から見せていただいた古文書である。ここには、「摂津国武庫郡越木岩新田大國主西神社・・」と書かれており、この越木岩神社(甑岩神社)が、大國主西神社または西神社と呼ばれていたことがわかる。


延喜式神名帳に記載された大國主西神社をめぐって、越木岩神社と西宮神社の間に諍いがあったようである。

また、越木岩神社の境内の様子を描いた古文書に、蛭子神社と岩神社が別に描かれているものがある。ひよっとしたら、現在の越木岩神社と、その北にある甑岩は切り離して考えたほうが良いのかもしれない。
つまり、この場所は、甑岩を中心とする古代祭祀場であり、後からその南側に大國主西神社が鎮座したのではなだろうか。
というのも後述するが、甑岩とオオクニヌシの関係を示唆するものが何もないからだ。

【飯森隆年宮司に古文書を見せていただいている、大江幸久氏と葛原黄道氏】Photograph 2013.10.13.



本殿の西側の甑岩に向う参道脇にある石でできた土社がある。
看板には次のような説明がある。

土社
祭神 大地主大神(オオトコヌシノオオカミ) 我々が立っている大地を祭る。土地や住居や生成を守護す。地鎮祭の神でもある。

【越木岩神社 土社】Photograph 2013.316.
さらに登ると甑岩に到着する。その手前に石でできた六甲山社がある。なぜか西向きに拝するように建てられている。看板には次のような説明がある。

六甲山社
祭神 菊理姫大神 武庫山(六甲山)を拝み東麓第一の社で山の神を鎮め祭る。農業守護・延命息災

【越木岩神社 六甲山社】Photograph 2013.316.
六甲山社の向かいには、伊勢神宮の遥拝所がある。

遥拝所
伊勢神宮・宮中三殿 神宮神社をはるかに礼拝するところ(脇殿 天照皇大神宮)

【越木岩神社 遥拝所】Photograph 2013.316.
2つの稲荷社もある。

左 稲荷社 祭神 白玉稲荷大神 伏見稲荷大神を勧請す。衣食住・商売繁昌の守護神
右 稲荷社 祭神 大崎稲荷大神 火災・家の災いを祓いのぞく神として祭られている。除災招福・鎮火の霊験あり。

【越木岩神社 稲荷社】Photograph 2013.316.
さて、いよいよ甑岩である。岩社の後ろに巨大な磐座がそびえている。
(北緯34度45分32.22秒、東経135度19分18.60秒)
【越木岩神社 岩社と甑岩】Photograph 2013.316.

甑岩(コシキイワ) 女性守護・安産・子授の神
御本殿の背後の一大霊岩を甑岩という・高さ10メートル・周囲30メートルの花崗岩の大怪岩である。
岩上に雑木が生じて、社名・町名もこれより起こった。
室町時代の俳人、山崎宗鑑(1464年〜1553年)は即興の句を吟じた。『照日かな 蒸すほど暑き 甑岩』甑の意味は、方形・円形の米などを蒸し炊く器でセイロともいう。夏の暑さの酷しいことをいう。また、すぐ脇のご神水を、はせを(松尾芭蕉)は『さざれ蟹 足這い上がる 清水かな』と詠った。攝津名所図会(天保7年1836年)や摂津市によると以上の二首と「甑岩神祠は越木岩村にあり祭神巨岩にして倚疊甑(キルイコシキ)の如し。この地の産土神とす」と記してあるように霊験あらたかな霊岩である。御祭神は市杵島姫大神(イチキシマヒメ)で女性守護・安産・子授の神様として祀られている。
俗に辧財天と称せられ、音楽や芸術の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、更には縁結びや、財宝をもたらす金運の美女の代名詞である「幸福の女神」、七福神の一として御神徳の高い神様であることから、子どもの成長や芸能の上達を祈る神様としても信仰を集めている。
     -----神社パンフレットより-----


【越木岩神社 甑岩(南座) 南西側から撮影 】Photograph 2013.6.11

【越木岩神社 甑岩(南座) 西側から撮影】Photograph 2013.6.11

【越木岩神社 甑岩(南座) 北西側から撮影】Photograph 2013.316.

【越木岩神社 矢穴の跡が残る割石】Photograph 2013.316
 築城時代にこの穴に矢(楔)を打ち込んで磐座を割った後である。

【越木岩神社 甑岩(南座) 北西側から撮影】Photograph 2013.316.

【越木岩神社 甑岩(南座) 北側から撮影】Photograph 2013.6.11
祭壇のような場所、上部の三角形の岩にも矢穴があり、磐座の一部が割られている。

【越木岩神社 甑岩(南座) 北側から撮影】Photograph 2013.316.
北を指している突起岩

【越木岩神社】Photograph 2013.316.
北を指している岩の先にある割石も北を向いている。

【越木岩神社 甑岩(南座) 南東側から撮影】Photograph 2013.6.11

【越木岩神社 池田備中守長幸家紋】Photograph 2013.316.
大阪城築城のために切り出そうとしていた時の城主 の刻印



甑岩から北東に60メートル歩くと、貴船社とその背後に磐座がある。
(北緯34度45分33.74秒、東経135度19分19.87秒)

【越木岩神社 中座 貴船社】Photograph 2013.810.


貴船社 祭神 貴船大神・龍神
水に縁ある諸業守護し給う。炎早霜雨、豊年、海上安全、当社の奥宮は六甲山石宝殿であり雨乞いの霊験は特にあらたかである。


 
【越木岩神社  中座 東側から撮影】Photograph 2013.316.

【越木岩神社 中座 西側から撮影】Photograph 2013.6.11
2つの岩が東西ラインに沿っている。巨大な方位石であろうか。

さらにその北側に、北座がある。(北緯34度45分34.18秒、東経135度19分19.92秒)

【越木岩神社 北座 南側から撮影】Photograph 2013.316.

【越木岩神社  北座 北側から撮影】Photograph 2013.6.11

阪神大震災によって、この越木岩神社も被害を受けた。甑岩の東側が崩れ、北座も崩れ落ちた。
飯森宮司は、これらの磐座を完全に復元しようと考え、飛鳥建設から見積もりをとったところ、1千万円もかかることがわかった。社殿も半壊しており断念するしかなかったそうである。そして、甑岩の東側と北座については、ダミーの石を用いて復元せずに、明らかに修復したとわかるように修復したということである。
特に北座は以前とは全く形を変えてしまっており、イワクラを研究するものとしては、残念でならない。
かっての、北座の様子は、このホームページに写真が載っている。
1996年の写真 泰山氏のホームページ

【越木岩神社  1987年の 甑岩(南座) 】Photograph 1987.3.15

【越木岩神社  2013年、震災後に修復した 甑岩(南座) 東側から撮影 】Photograph 2013.6.11
  震災後に崩れ落ちた東面をあえて、修復したことがわかるように補強している。

神社のパンフレットでは、甑岩には、市杵島姫大神が祀られているとされている。また、北座には、稚日女尊宮(ワカヒルメノミコト)が祀られているという説がある。
ここで池田仁三氏の興味深い研究がある。池田仁三氏は、コンピュータ画像解析で墓碑や石碑に何が彫られているかを研究されている方である。
池田氏は、この甑岩の台座に「稚日女命宮、庚子年九月廿日薨、御年四十七歳」、北座に「稚日女命」と彫られていることをつきとめている。
しかし、これには納得ができない。甑岩は、女陰をかたどっているとも考えられるので良いが、北座の磐座は明らかに男根をかたどったものであり、この北座にワカヒルメを祀るのはありえない。
では、北座には誰が祀られていたのかということになるが、ホツマツタエによるとワカヒルメの夫はオモイカネであり、一つの答えとしてオモイカネが考えられる。

さらに、この碑文は漢字で彫られており、漢字が伝わったのは紀元前後のことである。私は、この磐座はそれよりも古いものと考えているので、碑文を全面的に信用することはできない。
本当にワカヒルメの墓なのかはあやしい。
磐座は人格神の現れる前から存在していたのではないだろうか。


【池田仁三氏による画像解析結果  大磐座前のお社の台座】

【池田仁三氏による画像解析結果  北の磐座ご神体】



この甑岩には不思議な逸話が伝わっている。
神社のパンフレットでは次のように書いている。

大坂(阪)城築城の残石
ご本殿の残石や甑岩に、大坂(阪)城を築いた池田備中守長幸(松山城主六万五千石)と鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀城主三十五万七千石)の使用刻印がある。これらの家紋は大坂城石垣にも多数残っている。又、砕石不明であったが、当境内より数個の刻印石が発見され、当社および、付近一帯が砕石地であったことが判明した。
ちなみに、零岩甑岩を大坂城築城(1583年頃)のために切り出そう豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、今にも割れんとする岩の間より鶏鳴し真白な煙が立ちのぼり、その霊気に石工達は岩もろとも転げ落ち倒れ臥した。如何にしても甑岩は運び出せなかったと言い伝えられている。
     -----神社パンフレットより-----

また、西宮の民話にも同じ話が残っている。

西宮の民話 こしき岩のいかり

 夙川(しゅくがわ)はむかしからきれいな川で、すき通った水の流れに、川底の白い砂がキラキラと輝いていました。
 この川は「こしき岩」のあたりから流れ出ていると言われていました。人々はこしきいわを神そまの岩として大切にしてきましたし、そこから流れてくる夙川ですから、きれいなのは当然でした。今でも、岩のそばにきれいなわき水が出ています。
 「こしき岩」は「越木岩」という字も使われますが、「こしき(甑)」に似ているので「甑岩(こしきいわ)」と言われるようになったのです。
 「こしき」というのは、酒づくりのお米をむしたり、麻布の材料にする麻のくきをむしたりする道具のことです。一度にたくさんむすので、ものすごい蒸気をふき出します。
 「こしき岩」はそのような形をした、とても大きな岩です。高さが十二メートル、まわりは大人が手をつないで三十人分もあります。山にどっかりと腰をすえ、天に向かってそびえ立つ、大きな大きな岩なのです。そのあたりは、この岩を守るかのように古い木がおいしげり、昼間でもうす暗い感じがします。人々は昔から神さまの岩としておそれ、大切にしてきたのでした。
 今から四百年ほど前、大阪城の石垣をきずく工事が始まったころのことです。
 日本全国のお殿さまが家来(けらい)に命じて、あちらこちらの山を探させ、大きな石を見つけては、大阪へ運んで行きました。あるお殿さまが、このこしき岩に目をつけました。
 「あんな大きな石なら、城の石垣にすればさぞ見事なものであろう。ぜひ持って行っててがらにしたい。さっそく切り出せ。」
 それを聞いた越木岩の村人たちは心配しました。
 「この岩は昔から白い竜が住みついている神さまの岩だ。これを割って、ここから運び出すようなことをすれば、どんなたたりがあるやもしれん。おねがいです。おやめください。」
 村の長老(ちょうろう)たちは必死になって役人にたのみました。けれども、役人たちはこの申し出に耳を貸そうとはしませんでした。「お殿さまの言いつけだ。」と、おおぜいの石切職人(いしきりしょくにん)を連れてきて、この大岩を切り出す作業にかかりました。
 いっせいに打ちおろすつちの音で、のみが岩にくいこみました。カーン、カーンとひびく音は山々にこだましましたが。見守る村人の耳には、山鳴りの音のようにぶきみに聞こえるのでした。
 「これは大変だ。必ずたたりがあるぞ。」
 大声でどなりましたが、石切職人たちの耳にはとどきません。
 のみを打つたびに火花が散ります。それがだんだんはげしくなり、そのうちに岩のさけ目から白いけむりがふき出し始めました。おそろしいことが起こるにちがいないと思う間もなく、そのけむりが白色から黄色へ、そして赤に、それから青、黒へと変わり、それらが入りまじって、ものすごい勢いで音を立ててふき出しました。
 その熱気は、ふしぎな力をもって石切職人は手足をふるわせ、苦しみもだえ、斜面をころがり落ちました。そして、やがて息たえてしまったのです。
 そのようすを見た役人たちも、さすがにふるえ上がり、命からがら逃げ出しました。
 こんなことがあって、こしき岩はいっそう人々から大切に思われるようになりました。今でも、大岩にはその時ののみのあとが一列に残っています。
  ----西宮市ホームページより---------

400年前に、甑岩を割ろうとしたら、白い煙が噴出したという話が伝わっているのである。
単に、甑岩の霊験を高めるための作り話なら、石工が祟りで死んだということで良いだろう、なぜ音を立てて煙が噴出したという話まで必要だったのだろうか。これは、甑岩から煙が噴出していたという事実を反映したものではないかと考える。
1100年前の甑岩は煙を上げていたという話も伝わっている。

圧電素子という電気部品があるのをご存知だろうか、これは、水晶やチタン酸バリウム結晶など、特定の種類のセラミックの結晶に圧力を加えると電気を生じる現象を利用したものである。この現象は、圧電気またはピエゾ電気といい、1880年にキュリー兄弟によって発見されている。
固体に圧力を加えることによって、固体の格子状の結晶の中に配置されたイオンの位置がずれ、結晶の一方の端がプラスの電気を帯び、もう一方の端がマイナスの電気を帯びる「電気分極」が起こる。これによって固体の両端に電圧が発生するのである。
このような圧電材料を電極で挟んだものを圧電素子といい、単純な構造なのでクォーツ時計の水晶振動子、超音波診断装置、携帯電話用小型スピーカ、ハードディスク読み取り装置、超音波加湿器など幅広く利用されている。
この圧電現象は石英でも起こるので、石英を多く含んだ花崗岩に力を加えて電気が発生しても不思議ではない。
つまり、甑岩は、岩石を複雑に組み合わせて、圧力を制御し、電気を発生させていたものではないかというのが私の考えである。電気が発生すれば、熱や光に変換するのも可能である。
この甑岩は古代のエネルギー施設であり、そのシステムが稼動していたのではないだろうか。

       照日かな 蒸すほど暑き 甑岩
                                             山崎宗鑑

2013年11月23日  「越木岩神社の甑岩」 レポート 平津豊