オノゴロ島と国生み神話

 Report 2013.1.3 平津 豊 Hiratsu Yutaka
Share (facebook) トップ画面へ

本レポート(論文)のリンクおよびシェアは自由ですが、画像や文章を抜き出しての引用はご遠慮ください。

2012年12月12日、兵庫県書店商業組合主催の「古事記で日本を訪ねるバスツアー」に参加した。たまたま書店で見たパスツアーの案内パンフレットのコースに、前から行きたかった沼島が含まれていたからだ。
まずは、淡路島に渡り、淡路国一ノ宮である伊弉諾神宮(イザナギジングウ)を正式参拝した。
神名帳に淡路国多賀村所在する伊佐奈伎神社と記載されている神社である。

【伊弉諾神宮の参道 鳥居は神明鳥居】Photograph 2012.12.12 

【伊弉諾神宮の表神門】Photograph 2012.12.12 
 【伊弉諾神宮の拝殿】Photograph 2012.12.12 

ご由緒によると、

『古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮」を構へて余生を過ごされたと記される。
その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源である。地元では「いっくさん」と別称され日少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められている。
本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であった。御陵を中心として神域の周囲に濛が巡らされたと伝え、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構という。 建物や工作物は、明治九年から同二十一年に官費で造営されたものが殆どだが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進による。 境内地は、約一万五千坪。沖積地にあって天然記念物の大楠など照葉樹林に覆はれ、四季を彩る草木が繁茂する日本最古のお社である。江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領したとあり、広大な神域であった。
伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記し、神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(カクリノミヤ)」を溝へて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。これを創祀の起源とする最古の神社が伊弉諾神宮です。明治以前は、神陵の前方に本殿がありましたが、明治初年の国費により造営で、神陵の墳丘を整地して本殿を真上に移築し、現在の景観に整へました。
平安時代の延喜式の制では、名神大社。三代実録には神格一品。明治の制度では官幣大社に列格し、古くから淡路国の一宮と崇められ、地元では日本第一番の宮であることから「いっくさん」とも呼ばれます。また日之少宮、津名明神、多賀明神、淡路島神、一宮皇大神とも別称されています。
昭和二九年に、昭和天皇が「神宮号」を宣下されましたので、伊弉諾神宮と改称し、兵庫県下唯一の「神宮」に昇格しました。』

とある。

 【伊弉諾神宮の本殿】Photograph 2012.12.12 

 【伊弉諾神宮の中門】Photograph 2012.12.12 

 【伊弉諾神宮の幣殿 伊勢神宮から払い受けた御柱が見える】Photograph 2012.12.12 

【淡路神楽】Photograph 2012.12.12 

もともとこの地に、伊弉諾大神が隠居した「幽宮(カクリノミヤ)」があり、その後に御陵が造られた。最初は御陵の前に本殿があったが、明治に御陵の上に本殿を設けたということである。
また、今、本殿の入り口に御柱が立っているが、これは、元本殿の心柱跡に、伊勢神宮から払い受けた柱を立てたもので、結婚式を行なう場合は、伊耶那岐の命・伊耶那美の国生みの故事にならって、この柱の周りを回る儀式を行なうという。

正式参拝の後、淡路神楽を鑑賞させていただいた。笛と太鼓に合わせて巫女二人が扇の舞を踊るというものであったが、太鼓のリズムが軽快で、珍しいものであった。
その後、宮司が私に近寄ってこられて、伊耶那岐の神は、古事記では『かれ、その伊耶那岐の大神は淡海の多賀に坐す。』と滋賀県多賀にある多賀大社をさしているが、日本書紀では、『是の後に、伊弉諾尊、神功既に畢へたまひて、霊運当遷れたまふ。是を以て、幽宮を淡路の州に構りて、寂然に長く隠れましき。』とこの地をさしていると、わざわざ説明していただいた。

確かに、古事記(真福寺本)では、『故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也』と記されているが、古事記(伊勢本)では、淡路の多賀となっている。一方、日本書紀では、『伊弉諾尊神功既畢而霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者也』と淡路と記載されている。また、先代旧事本紀でも、淡路の多賀である。
伊弉諾大神を祀る神社として、淡海(近江)が正しいのか、淡路が正しいのか良くわからないが、単純に、この淡路の伊弉諾神宮にある御陵には、誰が葬られているのかが非常に興味がある。近江説なら全くの別人であるということであり、誰であるのかが説明できない。淡路説であれば、伊弉諾神が葬られているということになる。しかし、伊弉諾神は、国生み神話の主人公であり、文字通り神話の登場人物である。まさか伊弉諾神が実在してして埋葬されたとは考えにくい。

【左手前 伊弉諾神宮の左右大社 天照皇大神と月読尊を祀る
右奥 鹿島神社・住吉神社 】Photograph 2012.12.12 

【伊弉諾神宮の伊勢神宮遥拝所】Photograph 2012.12.12

 
【伊弉諾神宮の根神社・竈神社】Photograph 2012.12.12 

【伊弉諾神宮の陽のみちしみべ】Photograph 2012.12.12 

さらに、この伊弉諾神宮の境内には、「ひのわかみやと陽のみちしるべ」という石碑がある。
伊弉諾神宮の所在地(34度27分23秒)は、伊弉諾大神が住まわれていた宮殿後でもあり、日本書紀によると、その宮殿は日之少宮(ヒノワカミヤ)と呼ばれていた。これは、この伊弉諾神宮と同緯度にある、日の神である天照大神(アマテラスオオカミ)を祀る伊勢神宮と対を成すものであると説明されている。
また、夏至の日の出方向(29度30分)に諏訪大社、冬至の日の出方向(28度30分)に熊野大社、夏至の日の入り方向(29度30分)に出雲大社、冬至の日の入り方向(28度30分)に高千穂神社があるという非常に特殊な位置に、伊弉諾神宮が建っているのである。
さらに真北には、出石神社があり、真南には諭鶴羽神社がある。出石(イズシ)神社は、朝鮮から渡来した天日矛(アメノヒボコ)にまつわる神社であり、諭鶴羽(ユズルハ)神社は、ユダヤ系ではないかといわれている何れも特殊な神社である。その諭鶴羽神社のさらに先に沼島がある。
これは、レイラインの一つであり、日本にはこのような事例はたくさんあるのだが、古代の日本人は、なぜ遠方にある位置を正確に特定できたのか、不思議である。現在には伝わっていない特殊な方法があったと考えられる。


【沼島の観光案内図】Photograph 2012.12.12 
これから、その沼島に渡るのだが、その前に、国生み神話をおさらいしておく。

古事記の上つ巻の国生み神話は、次のような文章で始まる。

『ここに、天つ神のもろもろの命もちて、伊耶那岐の命・伊耶那美の命の二柱の神に、「このただよへめ国を修理め固め成せ」と詔らし、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画かせば、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時に、その矛の末より垂り落つる塩の累り積れる嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。』

伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)は、天の沼矛(アメノヌボコ)で海水をかき混ぜると、天の沼矛からしたたり落ちた海水から淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)ができる話である。

この後、古事記では、こう続く。

『その嶋に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここに、その妹伊耶那美の命に問ひて、「なが身はいかにか成れる」と曰らししかば、「あが身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」と答へ曰しき。しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「あが身は、成り成りて成り余れる処一処あり。かれ、このあが身の成り余れる処をもちて、なが身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに」伊耶那美の命の答へ曰ししく、「しか善けむ」しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「しからば、あとなとこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ」と、かく期りて、すなはち「なは右より廻り逢へ。あは左より廻り逢はむ」と詔らし、約り竟へて廻る時に、伊耶那美の命先づ、「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、おのもおのも言ひ竟へし後に、その妹に告げて、「女人の言先ちしは良くあらず」と曰らしき。しかれども、くみどに興して生みたまへる子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。次に、淡嶋を生みたまひき。こも子の例には入れず。ここに、二柱の神議りて云ひしく。「今、わが生める子良くあらず。なほ天つ神の御所に白すべし」といひて、すなわち共に参上り、天つ神の命を請ひたまひき。しかして、天つ神の命をもちて、ふとまにに卜相ひて詔らししく、「女の言先ちしによりて良くあらず。また還り降り改め言へ」かれしかして、返り降りまして、さらにその天の御柱を往き廻りたまふこと先のごとし。ここに、伊耶那岐の命先づ、「あなにやし、えをとめを」と言ひ、後に伊耶那美の命「あなにやし、えをとこを」と言ひき。かく言ひ竟へて、御合ひまして産みたまへる子は、淡道之穂之狭別の嶋。次に、伊予之二名の嶋を生みたまひき。・・・』

伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)は、淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)に降り、天の御柱(アメノミハシラ)と八尋殿(ヤヒロドノ)を建てる。伊耶那岐は天の御柱を右回りに周り、伊耶那美は左回りに周って、伊耶那美から声をかけて交わったが、水蛭子(ヒルコ)と淡嶋(アワシマ)という不十分な子供を生んでしまった。そこで再度、伊耶那岐から声をかけるようにやり直して、国生みを行なった。という話である。


大洪水から兄妹だけが生き残り、この兄弟が、樹木や山など高い物の周りを回ったあとに近親結婚して子供をもうけるが、最初の子供は肉塊や動物であり、天や神から正しい交わり方を教えられて初めて人間の子供ができる。というような兄妹始祖型洪水神話が東南アジアから東アジアの広い地域に見られる。
このイザナギ・イザナミの国生み神話もこの類型と考えられ、南方系の神話が日本神話に伝えられたと考えられる。あるいは、逆に、日本神話が南方へ伝えられたのかもしれない。

この国生み神話の舞台となる「オノゴロ島」の名前は、一般的に「自ら凝り固まった島」の意味とされているが、天沼矛でかき混ぜた時に「こをろこをろ」と音をたてたからと言う説もある。不思議な地名であり、なんらかの意味を持っているのではないかと思える。
その地名よりも、オノゴロ島がどこにあったかの方が重要である。
オノゴロ島は、日本神話の中で、国土が始まったという地とされているのだから、その地は、古代日本の中心地を意味し、日本人の発祥の地、つまりルーツを示唆していると考えられる。しかし、そのオノゴロ島がどこであったかには以下のように諸説ある。

1.淡路島南端の沼島
2.淡路島北端の絵島
3.淡路島三原町の自凝島神社
4.紀伊海峡加太沖合の友ヶ島、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島
5.鳴門海峡孫崎沖合いの裸島、飛島
6.播磨灘の家島
7.博多湾の能古島(ノコノシマ)
8.玄界灘の小呂島(オロノシマ)
9.鹿児島南方の屋久島
10.佐賀県北方の壱岐島(イキノシマ)
11.淡路島
12.紀伊半島
13.地球そのもの
14.伝説上の島で実在しない。
【淡路島北端の絵島】
Photograph 1998.7.12 
13、14であるなら、そもそも論議する必要はないので、ここでは触れない。10、11は、イザナギ・イザナミが生んだ島に出現するので、除外されるべきであろう。また、12も同様に受け入れにくい。
その他の島の中で、7、8は名前が「オノゴロ」に近く魅力的な説ではあるが、イザナギ・イザナミは、淡道之穂之狭別の嶋(淡路島)を1番目に生み、2番目に伊予之二名の嶋(四国)を生むので、やはり、淡路島と四国の近くの島1〜6と考えるのが妥当であろう(3は昔は入り江に浮かぶ小島であったと云われている)。

   【淡路島三原町のおのころ神社】
Photograph 1998.7.12 
 

また、古事記の仁徳天皇の章にも、淡道嶋(淡路島)で詠んだ歌として、『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝(オノゴロ)島 檳榔(アヂマサ)の島も見ゆ さけつ島見ゆ』と記載されており、淡路島からオノゴロ島が見えたと書かれている。
一方、檳榔の島とは亜熱帯にしか生息しないヤシ科の植物なので、淡路島から見えることはなく、そもそもこの歌に出てくる島は、実在しない島を示しているという考え方もある。
このように、オノゴロ島の所在地については、いろいろな議論があるのだが、中でも最有力地が沼島である。

【沼島へ向うの船から】Photograph 2012.12.12 

土生(ハブ)港でバスを降りて、沼島汽船で沼島に渡った。
沼島は、勾玉の形をしており、国生み神話にまつわる島としてふさわしい。

島では、「ぬぼこの会」というボランティアの現地ガイドさんから名所を説明していただくのであるが、まずは、ガイドさんの案内で、神宮寺に行き、そこの住職から沼島の説明をしていただいた。
ご住職の話では、沼島(ヌシマ)は昔、「武島」と表記し、今では発音していないムゥシマと言ったそうだ。

【沼島の弁財天神社の石垣 色とりどりの沼島産の岩石が使われている】Photograph 2012.12.12 

【沼島の鞘型褶曲が見られる岩石】Photograph 2012.12.12 

沼島全島が三波川変成帯の結晶片岩によって構成され、太平洋プレートとユーラシアプレートのぶつかり合うところできた変成岩が隆起したものと考えられており、各色の縞模様や同心円状の鞘型褶曲(サヤガタシュウキョク)が見られる。1億年前の地質を見ることができる沼島は、国生み神話の舞台であるオノゴロ島にふさわしい。

また、奈良県桜井の茶臼山古墳の天井石に沼島産の岩石が使用されていたことがわかっており、少なくとも、三世紀後半の大和政権において、わざわざ取り寄せるほど、沼島の岩石が有名であったことを示している。石室に沼島の岩石を用いた理由はわかっていないが、そこに祭祀・呪術的な意味合いがあったことは間違いないであろう。

【神宮寺庭園 緑色片岩で造られた築山式枯山水庭園】Photograph 2012.12.12 

【沼島庭園(伊藤庭園) 足利義植の作庭と伝えられている】Photograph 2012.12.12 

【沼島の八角井戸】Photograph 2012.12.12 


10キロメートル程の島ではあるのだが、沼島特有の緑色片岩を巧みに使用した沼島庭園や神宮寺庭園、梶原景時の墓とされる五輪石、神宮寺の種子尊勝法華曼荼羅など、見所も沢山ある。また、ガイドさんからは沼島女郎伝説も説明していただいた。万葉集にも「沼島」は出てくるので、有名な島であったことは確かである。

【手前 沼島のアミダバエ 「ハエ」とは磯のことである。
  奥 平バエ 船を出して祭りが行なわれる。昔は、この平バエに上陸して祭りを行なっていた。】Photograph 2012.12.12 

【沼島 上立神岩】Photograph 2012.12.12 
さて、本旅行の目的地である上立神岩(カミタテガミイワ)へ向う。島の中央部を南に向って600メートルほどで島の反対側の海岸に着く。
崖の上から巨大な岩が不自然に立っているのが見えてくる。崖の下に降りるにつれて、その岩が目の前に迫ってくる。これを海上から近づいたら、大迫力であろう。
この30メートルほどの上立神岩であるが、南西700メートルの地点に、これと対となる下立神岩がある。今回は見ることができないが、この下立神岩は、上立神岩よりもさらに大きかったのが、安政元年の地震で半分に折れ、室戸台風でさらに上部が崩れたということである。また、神宮寺のご住職のお話によると、住職が小さい頃は、上立神岩の上部には、松の木があったが、今は無くなっているということであり、この上立神岩も時間経過とともに崩れていっているらしい。
この上立神岩と下立神岩の対になった岩は、伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩の原型ではないかとも云われている。
さらに、下立神岩近くの鏡ヶ浦という海岸には、白く輝く岩があり、遠くからも良く見えたと云われている。
南向きに設置された光り輝く石ということで、直ぐに、日本のピラミッドにつきものの鏡石が思い浮かぶ。
非常に興味を惹かれたので、ご住職に、この岩を見に行けるかと聞いたところ、この鏡ヶ浦に降りる道は崩落して降りれないので、船で近づくしかないが、岩は崩れてしまっているとのことであった。いつか、船に乗って海上からこの岩を見てみたいものである。また、今回は時間がなく、沼島のおのころ神社には行けなかったので、再度、訪れてみなければならない。

私は、磐座や立岩など古代の岩石遺跡を見てまわっているのであるが、それらの遺跡は、長い年月の間に形が崩れ、当初の趣とは変わってしまっている可能性を、改めて認識させられた。 

 
 
【沼島 上立神岩 船と比べるとその大きさがわかる】Photograph 2012.12.12 

 
【勾玉の形をした沼島遠景】Photograph 2012.12.12 

・・・・はるかいにしえの時代、小さな舟を連ねた船団が日本に近づいてくる。

その舟に乗っているのは、顔面と体中に刺青をした海人族である。

南方の島々から黒潮に乗って、新天地を求めてやってきたのだ。

彼らは、紀伊海峡を通って、日本の奥深くへと舟を進めた。

その時、目の前に、天を突くような巨大な立岩が現れた。

現在よりもはるかに大きな上立神岩と下立神岩である。

海人族は、神の業を感じて畏れ慄いた・・・

古代、この立岩は、今よりもさらに大きく、そびえ立っており、海人族に強烈な印象を与えたことは間違いない。その後、鳴門の渦潮にも出会った海人族は、自分たちに伝わっていた兄妹始祖型洪水神話を融合させて、日本の国生み神話を創り上げたとしても何ら不思議はない。

2013年1月3日  「オノゴロ島と国生み神話」 レポート 平津豊