広島県大土山のイワクラ

 post to my website in 2018.3.24 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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■はじめに
2017年10月7日にイワクラ学会の「イワクラサミットin福山」が94名の参加によって盛大に催され、その次の8日に大土山(おおづつやま)のイワクラツアーが行われた。
イワクラ学会員約40人が2台のマイクロバスに乗り、地元の軽トラ5台に守られて颯爽と出発した。地元の人達の我々への期待が伝わってくる。
【大土山への出発の様子】Photograph 2017.10.8

■天ノ岩座神宮
まずは、大土山の西のピークに鎮座する天ノ岩座神宮に向った(北緯34度38分31.93秒、東経132度46分7.26秒)。

私が天ノ岩座神宮を訪れるのは2度目である。前回は「星と太陽の会」の最後の回に訪れた。「星と太陽の会」は、佐藤光範氏が主催した岡山の磐座を毎月めぐるグループで、イワクラ学会の野崎豊氏や星加すみこ氏もメンバーである。驚くべきはその回数である。287回にも及ぶその数は、岡山の磐座の数の多さとともに、メンバーの磐座に対する情熱が現れている。私もその最後の数年間に参加させていただき感謝の念に堪えない。その「星と太陽の会」の終回で訪れたのがこの天ノ岩座神宮であった。
ここは、多くの神道家も訪れている場所である。

1982年に初代の宮司となる溝口似郎氏、中西旭氏、横井時常氏、佐々木聡和氏らによって一週間の祈祷が執り行われ、その3日目には龍が出現したという。
天ノ岩座神宮のホームページには中西旭氏の文章が掲載されている。

「わが本土の山々を巡ると、麓の神社の元つ宮とされていない古代祭祀跡にゆきつくことがある。この予想外の岩座が、とくに、広島県と岡山県に幾多も存在する。それも、ただ驚嘆される大構築も少なくない。いずれも一万年を超える有史前とみられるが、当時は、安芸と吉備と出雲にかけて、一大文化圏があったのではあるまいか。神武東征の途次、埃宮(えのみや=広島)と高島宮(たかしまのみや=岡山)に長期滞在された記事(記・紀)とも関連がありそうである。
ここに、広島県のほぼ中央に鎮まる大土山の西北の一峯(六八八米)の頂上の岩石群もその一つである。これは、饅頭型の巨石を主座とする、ほぼ平坦な地面に点在する岩根の組合せであるが、その形態および配置ならびに環境のあり方からみて、まさしく祭祀のための太古岩座である。もし発掘が許されるならば、石器時代以前の祭器も出土するであろう。また、その西麓の甲田町辺から、沢山の立派な古墳群が見出されるのも、それ以前からここに文化の源泉(祭祀)があったからであろう。他の著名な「元つ宮」に比して、その規模は、とくに巨大でも微小でもないが、その威厳にみちた雰囲気は、著しく清明にして優雅な稜威が感受される。おのずから、辱かたじけなさに涙こぼれるが、何ごとが在おわしますかは、凡夫の身には知りかねる。」

一の鳥居から二の鳥居へ向う道は谷になっており登りきったところに天ノ岩座神宮が鎮座している。目の前にある二の鳥居にたどり着くには、一旦谷を降りて登らなければならない。この地形が天ノ岩座神宮の神格を高めている。
【天ノ岩座神宮 一の鳥居から二の鳥居をのぞむ】Photograph 2017.10.8

天ノ岩座神宮に社殿はなく、岩石を磐座として祀る原初の磐座信仰の形式をとっている。
地元には、大昔、神々の会議場であったという言い伝えがあったが、人が立ち入らない場所でもあった。
地元の栗原基氏は、『日本書紀』の一書(大二)に「是の時に、素戔嗚(すさのお)尊、安芸国の可愛(え)の川上に下り到ります」と記述されていることから、高天原は江の川の上流の近くにあると考え、このあたりを調査して巨石群を発見した。
その『日本書紀』の一書をそのまま読むと、安芸国の可愛の川上で素戔嗚は、脚摩手摩(あしなづてなづ)に出会い、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、脚摩手摩の娘の奇稲田媛とともに出雲国の簸の川上に遷ったのである。栗原氏は、大土山が高天原であり、そこから素戔嗚が江の川の上流に降りたと考えたのであろう。
さらに、この大土山には市杵島姫(いちきしまひめ)命の出生地という伝承も残っているので、天照大神と素戔嗚神の誓約(うけい)もこの地で行われたのかもしれない。さて、その巨石群は、中心に天照大御神を祀る最大の巨岩があり、その周りに神々の名が付いた9つの磐座が取り巻いている。
大土山は800メートルの山であるが、ここは688メートルのピークの1つである。谷に囲まれた見晴らしの良い山の上に、巨岩が鎮座している光景は素晴らしい。また当日は、眼下に雲海が広がっていてその神秘性を増していた。
【天ノ岩座神宮から見る雲海】Photograph 2017.10.8

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮に立てられている説明図】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2016.12.18

【天ノ岩座神宮】Photograph 2017.10.8

天照大御神の直ぐ前の岩は「溝口似郎大人命」と名付けられている。これは天ノ岩座神の溝口似郎宮司に因んでつけられた名前と考えられるが、他の岩に比べて色が白く、特別なもののようである。
武部正俊氏は、この岩が赤く変色していることから火を焚いた後ではないかと推測されていた。

■潜り岩の周辺
天ノ岩座神宮の次は、大土山頂上近くの潜り岩(こぐりいわ)に向った(北緯34度38分29.89秒、東経132度46分58.86秒)。
岩が割れて人が潜れるようになっている。
55°の方向に割れた岩が動いて、人が潜れる割れ目が135°方向に形成されている。
この岩は傾斜に逆らって開いているので、自然に形成されるとは考えにくい。
【大土山の潜り岩】Photograph 2017.10.8

【大土山の潜り岩】Photograph 2017.10.8

【大土山の潜り岩】Photograph 2017.10.8

【大土山の潜り岩】Photograph 2017.10.8

 この潜り岩から北へ20メートルの所にある岩も特徴的な形をしている。また、岩と岩の間に盃状穴があった。
最近、平らな面の中心に1つだけ盃状穴が造られているという光景に良く出会う。これは何か特別な目印またはメッセージのように思える。ただし、この岩組からは、意味のある方位は見つけられなかった。
【大土山の気になる岩組】Photograph 2017.10.8

【大土山の気になる岩組】Photograph 2017.10.8

【大土山の気になる岩組】Photograph 2017.10.8

 さらに北へ10メートルの場所に、岩が放射状に並べてあった。怪しいと思って石が指す方向を測定すると、夏至の日の入り方向(300°)や真北(0°)といった意味のある方位を示していた。これらの石は方位石と推測する。
 【大土山の方位石】Photograph 2017.10.8

 【大土山の方位石】Photograph 2017.10.8

 さらに北へ10メートルの場所に、丸く円を描くように石が並べてあり、その中に四角い大きな岩があった。柳原輝明氏としばらく議論して、これは祭祀場だろうという結論に至った(北緯34度38分31.17秒、東経132度46分58.73秒)。
 【大土山の祭祀場】Photograph 2017.10.8

【大土山の祭祀場】Photograph 2017.10.8

そのあと、3日前に村の人が発見したという巨石を見に行った。まるで、このツアーのために現れたようである。
北西に70メートル下ったところにその巨石はあった。それは大きな巨石であったが、この巨石の北西側に船形の岩が不思議な形で飛び出ている光景に驚いた(北緯34度38分32.97秒、東経132度46分56.44秒)。
自然に形成されるものなのか、人工のものなのか、詳細な研究が必要である。
星加すみ子氏によると、後日に「大土山を元気にしよう会」が村の人を募ってツアーを行い、この巨石を「神代亀」、飛び出ている岩を「舟屋」と名付けたそうである。
【大土山の神代亀】Photograph 2017.10.8

【大土山の舟屋】Photograph 2017.10.8

【大土山の舟屋】Photograph 2017.10.8

 この場所で、私が注目したのは、巨石の北の岩である。この岩に目が彫ってあるように見えるのである。またいつか、側に近づいて詳細に調べてみたい。
岩に彫られた目を研究されている岡本静雄氏が今回のツアーに参加されていないことが残念であった。
【目の刻印か】Photograph 2017.10.8

■楔岩
次に、今回のツアーのハイライトである楔岩に向った。
楔岩は、いくつかの岩海を越えた先にある。
岩海とは、多くの岩が渓谷を埋めた状態をいうが、岩好きにはたまらない光景である。広島では、久井の岩海と矢野の岩海が有名であるが、この大土山の4筋の岩海は、ほとんど知られていないそうである。
 【大土山の岩海】Photograph 2017.10.8

 潜り岩から楔岩へ向う途中、東北320メートルの所に、2つに割れた巨石があった(北緯34度38分35.74秒、東経132度47分09.32秒)。
その割れの方向がびったりと東西方向であったので、春分・秋分の日の出の太陽の光がこの隙間に入るかもしれない。
 
  【春分・秋分の日の出の太陽の光が入る岩】Photograph 2017.10.8

 潜り岩から東北750メートルの所に楔岩があった(北緯34度38分39.41秒、東経132度47分25.97秒)。
2つに割れた岩の隙間の上に楔形の岩を置いてある。
 【大土山の楔岩】Photograph 2017.10.8

 【大土山の楔岩】Photograph 2017.10.8

 築城時代に巨石を割るには矢穴方法が用いられたが、縄文時代にはどのように岩を割ったのか明確になってない。一つの考え方として、岩を用いて岩を割ったのではないかという説がある。
インカのサクサイワマンやオリャンタイタンボ遺跡の石組みの隙間はカミソリの刃も通さない精巧さで知られているが、インカの石造の研究家であるプロッチェン博士は、ハンマーストーンという技術が使われたと主張している。

これは、石と石の合わせ面を小さな石で少しづつ砕いて、平らにして一致させていくというものである。
私は、さらに、石と石を合わせて、その上から小さな石で叩き、その衝撃力で石と石の合わせ目を砕いて一致させていくという技術や同じ材質の石と石をこすって研磨するという技術も同時に使われたのではないかと考えている。
根気はいるが、隙間のない石組みが造れる。また、下の石に喰い込んでいくように整形されるので、インカの石組みが5角形や6角形の複雑な形をしていることの説明もつく。
これの発展形として、大岩の目に沿って、上から石を落として、下の大岩を割るという技術もあったのではないだろうか。まさに、この楔岩がその割る瞬間を表しているように思えるのである。
さらにこの楔岩を見て、その方法の詳細が私の頭に浮かんだ。割りたい大岩の石の目に逆三角形の石を据えて、その上から石を数回落として、その石の衝撃力で徐々に割っていったのではないか。というものである。これなら適当に石を落としても、力を一点に集中できる。
この楔岩は、実際に岩を割りかけて放置した跡というよりは、一族の若者に岩の割り方を教えるための造形だったのではないだろうか。

 
■謝辞
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった瀬川博文氏をはじめ「大土山を元気にしよう会」のみなさんにに感謝いたします。
また、今回のツアーを企画された星加須美子氏をはじめ「日本棒気功自然環境学会」のご協力により、非常に有意義なツアーとなりました。そのご尽力に感謝いたします。
 
■参考文献
1 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本書記、岩波書店(1994)
 2 天ノ岩座神宮ホームページ、http://www.nippon-bunmei.jp/index-1.htm
 3 大土山天の岩座顕彰趣意書(1982)

2018年3月24日  「広島県大土山のイワクラ」  平津豊