東近江イワクラツアー

 Report 2014.1.3 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2013年10月6日、イワクラ(磐座)学会の東近江イワクラツアーに参加させていただいた。
そのツアーで見学した東近江の磐座をレポートする。
ツアー前日には、イワクラサミットイン 近江八幡が開催され、170名もの人が参加して、活発な意見交換が行なわれた。
6日の東近江イワクラツアーは、学会員に一般の方も加わって、40名以上もの大人数となった。
8時8分、マイクロバス2台に分乗し、グリーンホテルを出発した。
案内役は、1号車は須田郡司氏、2号車は飯田勉氏である。

1 藤ケ崎龍神社(8時20分)

藤ケ崎龍神社は、琵琶湖に面した大岩が磐座として祀られている。その反対側には、妙得竜神龍穴という洞窟があり、2匹の龍を祀る場所のようである。(北緯35度08分34.22秒、東経136度02分32.95秒)
近江八幡教育委員会が立てた看板によると、万葉集をはじめ、この地を詠んだ歌は40以上もあり、文芸史上随一の名勝地である。巨勢金岡がこの名勝を描こうとしたが、あまりの見事さに筆を捨てたことから、筆捨ての岡、水茎の岡、筆ヶ崎、硯ケ淵などの名を残しているそうである。

天気も良く、近江のツアーの出発に相応しい絶景である。
 【藤ケ崎龍神社】Photograph 2013.10.6

 【妙得竜神龍穴】Photograph 2013.10.6


ここで、近江国高天原宮守清掃人と称する有川天界氏の説明があり、ツアー参加者は熱心に聞きいっていた。
そのお話は、以下のような内容である。

1 略縁起と書かれた石碑には次のように書かれている。

『龍王ト龍神ナトハ夫婦ニテ 名高キ藤太家名藤原 (江州蒲生郡牧村藤ケ崎神社ノ龍神略縁起)』

その意味は、龍と大蛇は夫婦である。俵藤太は、大蛇に頼まれ大ムカデを退治して、米俵一俵と様々な寶をもらった。一俵は、食べても食べ終わることは無かった。藤太の元の名は、藤原藤太だったが、それ以降俵藤太と名乗るようになった。

2 もう一つの石碑には、次のように書かれている。

『藤崎龍神社 奉納献上詩 水茎岡有小神牧 往古浮島号亀山 南麓小安奥宮杜 北麓龍神地蔵濱 一圓眺望夢絵巻 万葉古今名歌残 龍神大蛇睦藤崎 実在証明有徳人 平成20年11月13日  有川良房』


有川氏が、祠をきれいに掃除すると、竜神が現れて詩をくれた。その事を賀茂神社の禰宜に話すとこの石碑を作ってくれた。石碑の内容は全て夢の中で見たことで、啓示はいつも夢の中で示される。夢が本来の世界でこの世は仮の姿である。

3 藤崎の先の琵琶湖には竜宮城がある。乙姫さまにも夢の中で逢ったことがある。この世の推移は竜宮城の神の計画によって展開している。

4 藤ヶ崎龍神社から見える津田山(奥島山、姨綺耶山)には、天之御中主神をお祀りしていて、霊能者が修行に来ている。古代は湖上に浮かぶ島であった。
(※この有川氏のお話の部分は、前田光久氏、松永美和子氏の報告による)
 【グループに分かれて議論するツアー一行】Photograph 2013.10.6


湖岸の磐座は、二つの大岩からなり、その間からは、琵琶湖を挟んで長命寺山と津田山が望める。この磐座は、長命寺山の方向を意識して造られているようである。
ツアー一行は、その長命寺に向って出発した。

2 長命寺(9時5分)

当初、観音正寺に行く計画であったが、道路が通行止めになっているためルートから外された。

長命寺山の山腹の長命寺までは、八百八段といわれる長い石段が続くが、私たち一行は、途中までマイクロバスで登り、山上駐車場から百段の石段を登るだけですんだ。
社伝によると、この地で武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫って祈願したために長生きし、五代もの天皇に仕えた。その後、聖徳太子がこの地を訪れたとき、武内宿禰が祈願に彫った文字を見つけて眺めているところに白髪の老人が現れた。聖徳太子はそのお告げにしたがって、千手十一面観音を刻み伽藍を建立した。そして武内宿禰の長寿にあやかり、この寺を長命寺と名付けたと伝えられている。現在は天台宗西国三十三カ所の三十一番札所となっている。
平安時代末期に、源頼朝が佐々木定綱に命じて多くのお堂を建立したが、戦国時代に戦火で焼失し、現在のお堂は再建されたものである。

まずは、本堂の北側にある六所権現影向石(ロクショゴンゲンヨウゴウセキ)を見学した。(北緯35度09分46.58秒、東経136度03分50.94秒)
台座の上に乗った巨石がこちらにせり出して、いまにも崩れてきそうである。
説明板には、以下のように書かれてあり、長命寺の寺名の由来ともなった岩である。

『六所権現影向石 (天地四方を照らす岩) 当山開闢武内宿禰大臣 此の聖地に於いて祈願し 三百歳以上の長寿を全うす。』

 【長命寺 六所権現影向石】Photograph 2013.10.6


本堂の西の三仏堂を挟んだ隣にある武内宿禰を祀る護法権現社の北側には、修多羅岩(スタライワ)という四角い2つの巨石が並んでいる。(北緯35度09分46.62秒、東経136度03分49.14秒)
説明板には、以下のように書いてあり、武内宿禰のご神体のようである。

『修多羅とは、仏教用語で天地開闢、天下太平、子孫繁栄を言う。封じて当山開闢長寿大臣、武内宿禰大将軍の御神体とする。』

 【長命寺 修多羅石】Photograph 2013.10.6

さらに、西の鐘楼の隣には、太郎坊大権現社とその拝殿があり、その間にも大きな岩がある。この岩は飛来石と呼ばれており、長命寺の修行僧で、京都の愛宕山に移り住んだ太郎坊が、長命寺を懐かしく思って愛宕山からここまで飛ばしてきた岩と伝えられている。(北緯35度09分46.31秒、東経136度03分45.42秒)
 【長命寺 飛来石】Photograph 2013.10.6

境内には、他にも巨石がごろごろしており、この長命寺山とこれに連なる津田山は、古代の祭祀場であったと考えられる。

津田山は別名を奥島山といい、昔は琵琶湖の島であったようだ。七〜八世紀の頃、福岡の宗像神社の配置、つまり沖の島の沖津宮、大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮に宗像三神を祀る形式を模して、琵琶湖の沖島と、この奥島山と、大島神社に宗像三神が勧請された。
この大島神社は、現在の近江八幡市の日牟禮八幡宮(ヒムレハチマングウ)と云われている。
日牟禮八幡宮には、先日開催されたイワクラサミットの後、町を散策したときに訪れている。成務天皇(第13代)が武内宿禰に命じて大嶋大神を祀らせたのが始まりとされ、ここにも武内宿禰が出現している。

3 船岡山(10時25分)

次に訪れたのは、船岡山の麓に鎮座する阿賀神社(アガジンジャ)である。この神社には猿田毘古神(サルタヒコノカミ)が祀られている。
ご本殿の北東に、小山のような磐座がある。ごつごつした巨石の間に石段がこしらえてあり、その上に小さな社が置かれている。(北緯35度06分17.94秒、東経136度09分50.05秒)
石段を登って参拝していると岩に包まれているような感じとなる不思議な構造の磐座である。

 【船岡山 阿賀神社の磐座】Photograph 2013.10.6

 【阿賀神社から見える太郎坊山】Photograph 2013.10.6


ここから北東方向へ小道を歩いていくと田畑の向こうに、荒々しい太郎坊山を望むことができる。
鳥居をくぐって船岡山の頂上に向って石段を登ると、両脇に岩門のように岩を配した小さな稲荷社がある。さらに、その南西側に降りていくと巨石群のある場所にたどり着いた。
表面に万葉集を彫った石板を貼り付けてしまっているが、台座の上にしっかり建てたメンヒルである。(北緯35度06分19.59秒、東経136度09分50.78秒)
平らな面は北西を向いており、夕日を受けて輝いていたと考えられる。そしてその輝きは琵琶湖に浮かぶ船から見えたのではないだろうか。
考えの足りない者により石板が貼り付けられてしまったのは残念である。
また、このあたりの巨石の表面には、文字が彫られた跡がたくさん見られた。どのような文字かをその場で判断することはできなかったが、今後の調査を期待したい。

 【船岡山 メンヒル】Photograph 2013.10.6

 【船岡山 文字が彫られている岩】Photograph 2013.10.6

4 太郎坊山(11時20分)

今回のツアーのハイライトである太郎坊山に向った。
境内の石碑には、太郎坊山について以下のように説明している。

『太郎坊阿賀神社由緒記
神社名 太郎坊阿賀神社(通称 太郎坊宮)
御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤアメノオシホミミノミコト)
(天照大御神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊の御父神)
鎮座地 滋賀県東近江市小脇町二二四七番地
御神徳 勝運授福
当社は今から約千四百年前の創祀と伝えられている。鎮座地の赤神山(太郎坊山)は岩石が露出し、見るからに神秘的な神宿る霊山であると信じられてきた。天地万物を崇め、自然の恵みに感謝をする神道の教えの中で最も典型的なのがこの神体山信仰・磐座信仰であり、今も山上には奥ツ磐座、山麓には辺ツ磐座としての祭祀場が存在している。
人々の信仰が深く広くなるにつれ、このお山で修行をする修験者が多く現れ、その姿は太郎坊天狗として今に伝えられている。一般に当社を太郎坊さんと称する様に、天狗は御祭神の守護神となっている。
聖徳太子も当大神の霊験が顕著である事を聞こし召し、国家の安泰と万人の幸福を祈願した。また伝教大師も当社に参籠し、赫灼としたご神徳に感銘し、五十有余の社坊を建立して守護された。さらにあまたの人々の信仰により、山肌に次々と社殿が創建され、社頭も愈々充実してきたと思われる。こうして神道を基とした天台山嶽仏教と修験道が相交わる独特の信仰形態が確立され、庶民信仰の場として多くの参拝者を迎えるに至っている。
本殿前には夫婦岩と称される高さ数十メートルの二つの巨岩がある。言い伝えでは大神の神力により、巾約八十センチ長さ十二メートルにわたり、真二つに押し開かれたとされている。「この岩の間を通って参拝する者は、即座に病苦を除き諸願が成就するが、悪心ある者は岩に挟まれる。」ともいわれ、子供には悪戯をしたり嘘をついたら岩に挟まれると教え、戒めの場ともなっている。
この祭神は天照皇大神の第一皇子神であらせられる。最初に天降りの命を下された程の寵愛を受け、いつも脇に抱えて大切にされた子であるという事から、当地名が小脇と名付けられたと言われている。
ご神名から知られる様に、「吾れ勝ち負ける事が無い。なお勝つ事の速い事、日の昇るが如し。」で、殊に勝運の神として霊験あらたかであり、男子屈強の荘厳たる神を祀る現世利益・神験即現のお社である。
社名の阿賀はご神名の吾勝から付けられ、「特に喜び多く目出度き神を祀るお社」という意味である。赤神山の赤も同様に目出度き色である事から、「喜び多く目出度き神の座す山」という意味である。』

 【太郎坊山 竜神社】Photograph 2013.10.6

駐車場から石段を登ると御霊水が湧いている竜神社に着く、そしてさらに急な石段を登って愛宕社や稲荷社といった社を過ぎると、いきなり目の前を巨大な岩が塞いだ。夫婦岩である。(北緯35度07分05.19秒、東経136度10分53.60秒)この夫婦岩の高さは30メートルはあり、二つに割れている。まるで山そのものが割れているかのような迫力である。その割れ目を抜けるとすぐ本殿に到着した。
この夫婦岩の割れ目は、約60度であり、夏至の日の出の方向に向いている。近江富士と称される三上山とこの太郎坊山を結ぶ線も60度であり、なんらかの意図を持って配置されたものと考えられる。
巨大な夫婦岩を写真に撮る人、脇の岩窟を調べる人、夫婦岩の間を何度も歩く人、夫婦岩に寄り添う人など、一行は、しばらく思い思いの方法でこの巨大な磐座を楽しんだ。
 【太郎坊山 夫婦岩 東から撮影】Photograph 2013.10.6

【太郎坊山 夫婦岩 西から撮影】Photograph 2013.10.6

【太郎坊山 夫婦岩 南から撮影】Photograph 2013.10.6

【太郎坊山 阿賀神社 本殿】Photograph 2013.10.6

【太郎坊山 鎮魂窟】Photograph 2013.10.6


帰りは、裏坂という七福神の石像が置かれたルートから降りていった。途中の弁財天の石像の下の鎮魂窟という岩窟からは、冷たい風が強く吹き出しており、まるでこの霊山の息吹のようであった。

ここで、お弁当が配られた。山の上で美しい景色を眺めながらの昼食もいいものである。

この赤神山は、巨岩の磐座信仰に源を発しており、神仏習合によって建立された山麓の成願寺によって、修験道色が強まり、今日に至っている。
太郎坊とは、京都の愛宕山に住むといわれる大天狗の名前である。いかにも天狗の住みそうな山容と修験者が修行していたことから、この名前がついたのだろう。本来は阿賀神社である。
阿賀神社といえば、先ほど訪れた船岡山の神社名も阿賀神社であった。そしてそのご祭神は、猿田毘古神であったが、サルタヒコは、『日本書記』では鼻が七咫、背長は七尺余り、目は八咫鏡のように、ホオズキのように照り輝いていると描写されており、この異形が天狗とも重なる。船岡山の磐座は、この赤神山の辺津磐座かもしれない。

5 藤居本家酒蔵(12時55分)
ツアー一行は、近江で有名な酒蔵に向った。藤居本家は新嘗祭の御神酒(白酒)を宮中へ献上している江戸時代より続く酒蔵である。(北緯35度11分03.47秒、東経136度12分28.53秒)
ここでは酒蔵を案内してもらった。総けやき造りの酒蔵は、先代の藤居静子氏が自ら木材の調達から設計、建築の指揮まで行なって建てたもので、樹齢六百年のけやきの巨木は、並みの神社よりも立派なものであった。
見学の後は、お待ちかねの試飲。大いに盛り上がって、予定時間を大幅に超過してしまった。
【藤居本家酒造の見学】Photograph 2013.10.6

6 猪子山(14時35分)

ほろ酔い気分で、能登川町の猪子山に向った。登る途中、急勾配のためカーブでマイクロバスが尻餅をつくというハプニングがあったが、大事に至らずに到着。ここからは一直線のきつい階段を登った。眼下に琵琶湖が展望できる頂上には、巨岩の岩窟を利用した北向岩屋十一面観音が安置されている。(北緯35度10分20.51秒、東経136度10分03.84秒)

石碑には以下のように書かれている。

『北向岩屋観音
桓武天皇の延暦十年 西暦七九一年
坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼賊を討伐の際 この繖山五嶺の東北端烏帽子岩窟内に十一面観世音菩薩の石像を安置して祈願されたと伝えられている この観世音菩薩は像高四十八糎 光背三十糎 蓮座高十三、五糎となっており合掌の手に数珠をかけられているお姿は他に見かけられないと言われている 毎年七月十七日には千日会法要が盛大に勤行される
御詠歌 きぬがさ山に 登りてただたのめ しるしあらたな 岩屋観音
平成三年一月吉日建之 北向十一面岩屋観音奉賛会』


頂上は巨岩で構成されており、大部分は自然石のようだが、二つの石でスリットを形成している所など人の手も加わっているようである。
また、それらの岩の表面には、豊盛大神、福丸大神、清姫大神などとよくわからない神名が彫られている。巨石信仰を起源として、各種の信仰が積み重ねられた様子がよくわかる。
【猪子山 北向岩屋観音の磐座】Photograph 2013.10.6

【猪子山 北向岩屋観音の磐座頂上部】Photograph 2013.10.6


しばらく休憩した後、岩船まで歩いて降りた。
途中で地元の人が追いかけてきて、十一枚に分かれたカエデの葉を見せて、珍しいこの木はこの山に2本しかないと説明してもらった。我々の一行を見て、伝えないといけないと思ったそうである。
ハウチワカエデのようだが、十一面観音にちなんで植えられたものであろうか。
下山途中に横穴式石室(猪子山14号墳)があった。この猪子山には古墳も多く存在するようである。

側の看板には次のように書かれていた。

『猪子山の古墳群
猪子山の古墳群は古墳時代の後期に属する五世紀から六世紀にかけてつくられたものと言われている。これらは主に山麓から中腹に八基散在しており、いずれも繖山の山麓に居住した豪族たちの家族の墳墓としてつくられ順次追葬されていったものと思われる。又これら古墳の中より副葬品として埋葬された土器や金環などが出土している。』


脇道を山側に少し入ると、土草に覆われた大きな岩がある。
(北緯35度10分26.63秒、東経136度10分09.13秒)

これも磐座で、看板には以下のように書かれている。もちろん、菅原道真の話は後付けである。

『磐座(いわくら)
社伝古文書に天慶年間(九三八〜九四六)菅原道真公の御神霊比良より繖山の勝菅の岩屋に鎮り給うとあるが、この磐座をさすものと思われる。磐座は古代における巨石崇拝時代の遺品で社殿のつくられる以前の風習で岩石の上面または巨石を御神体もしくは神の出でます座所とみなされていた。』

【猪子山 菅原道真の磐座】Photograph 2013.10.6


さらに、降りると目的の岩船と神社が見えてきた。
(北緯35度10分29.65秒、東経136度10分00.20秒)

看板には以下のように書かれている。

『岩船
この岩船は、神亀五年(西暦七二八年)五月朔日、高島比良の山より湖上をこの地に渡りたもうた比良大神(白髭明神)が御乗船されたものと伝えられている。この横の社は、岩船社と称し渡湖の際、岩船を先導された津速霊大神がまつられている。
古代の住民は奇石、怪石に対する崇拝がさかんで、この岩舟も頂上の磐座(いわくら)と共に巨石崇拝時代の遺品といえよう。』

【猪子山 岩船】Photograph 2013.10.6


きれいな船形をした巨岩である。バスの窓から見えたときに、わあっという歓声があがったのもイワクラ学会のツアーならではのことであろう。

船に似た岩をもって、神が降臨した岩船であるという話は、各地に残っているが、津速霊大神とは、何者であろうか、津速産霊神(ツハヤムスビノカミ)のことであろうか、
津速産霊神は、隠された神で、忌部氏の『古語拾遺』に高皇産霊神、津速産霊神、神皇産霊神の兄弟三神として登場する。また、中臣氏の始祖である天児屋命(アメノコヤネノミコト)の父神または祖父神ともいわれている。
一方、白髭明神は、高島市鵜川に鎮座する白鬚神社の御祭神である猿田彦大神のことと考えられる。

ツアー一行は、この岩船の前で記念の集合写真を撮った。
予定時間をオーバーしてしまったため、帰りの電車時間の都合がある方はここで解散となった。残った人は沙沙貴神社に向った。

7 沙沙貴神社(16時00分)

佐々木源氏の神社で、延喜式内社の古社である。(北緯35度08分12.24秒、東経136度08分04.15秒)
御祭神は、少彦名命(スクナヒコナノミコト)、大彦命(オオヒコノミコト)、仁徳天皇、宇多天皇・敦実親王の四座となっている。
宇多天皇が祀られているのは、宇多天皇の皇子敦実親王の子孫が臣籍降下して源の姓を賜り、近江守となって佐々木荘に土着し「佐々木」を名乗ったとされるためである。
孝元天皇の皇子大彦命が祀られているのは、佐々木氏に同化したといわれている沙沙貴山君という古代豪族の始祖が大彦命であるためである。
少彦名命をが祀られているのは、『日本書紀』に、海上から白斂の皮で作った舟に乗り鷦鷯の羽を以て衣として少彦名命が到来したとあり、さらに、鷦鷯これを裟裟岐(ササキ)と云うとの注釈が付いている。この逸話から祀った御祭神のようである。また、大彦命の弟に少彦男心命(スクナヒコオココロノミコト)という紛らわしい名前の人がいるのも気になる。
仁徳天皇は、その名前が大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)であり、鷦鷯(サザキ)の関係から祀られたようである。
要するに、「ササキ」に関する神は全てここに祀るという考えのようである。

楼門の外に陰陽石がある。目を閉じて、一方からもう一方の石に、たどり着けば、縁結びの願いがかなうらしい。
境内には、「磐境」と呼ばれている勾玉の形状をした磐座がある。この磐座の形は平面的である。
また、幣殿の横には「またげ石」と呼ばれている小さな石がある。夫婦でまたぐと子授けの霊力があるようだが、またがなくても、かなりのパワーがあるらしく、気を感じ取れる人達が石の前でしばらく楽しんでいた。
【沙沙貴神社 陰陽石】Photograph 2013.10.6

【沙沙貴神社 磐境】Photograph 2013.10.6

【沙沙貴神社 またげ石】Photograph 2013.10.6

その後、近江八幡駅で解散となった。
今回のツアーでは、6箇所の磐座や神社を訪ねることができた。
東近江の古い祭祀を垣間見ることができて大満足のツアーであった。
名残を惜しみながら帰路についた。(16時40分)


2014年1月3日  「東近江イワクラツアー」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報29号 2013年12月2日発行  掲載