しまなみ海道と松山のイワクラ

 Report 2014.2.16 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2013年9月21日、篠澤邦彦氏が主催する白石の鼻巨石群フェスティバルに参加するために、兵庫県から愛媛県に向った。篠澤氏はイワクラ(磐座)学会の仲間である。途中のしまなみ海道にあるイワクラや松山のイワクラを紹介する。

しまなみ海道といえば、尾道の寺社が向島の岩屋山のイワクラに向って建っているということで有名だが、向島については尾道と一緒に調査したいので、今回はパスした。

生名島の立石と立石山のイワクラ
最初に訪れたのは、生名島(イキナジマ)である。
因島北インターで西瀬戸自動車道を下り、土生港からフェリーに乗って3分で生名島に渡った。
麻生イト(1874~1956)が観音信仰の霊場として作った三秀園の中に巨大な立石(メンヒル)がある。
(北緯34度16分49.08秒、東経133度10分33.34秒)

教育委員会の看板には以下のように説明している。

この立石は、神霊の宿る石神として弥生時代の人々の信仰対象でありました。
生名島の石ではなく、(原産地不明)海上運搬されたものと思われます。
石の高さ約5m(地下2m)、周囲約20m(地下周囲25m)あります。

昭和51年3月 上島町教育委員会・旧生名村文化財専門委員会

これは、篠澤邦彦氏が指摘していることなのだが、この立石はイワクラにしては珍しく、学術調査されており、その結果が驚くべきことなのだ。
つまり、弥生時代に200トンもあろう巨石をこの島に運搬したというのだ。どんな船を使ったのであろうか、弥生時代にそんな技術があったということなのか、謎である。

【生名島の立石 南から撮影】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石 東から撮影】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石 北から撮影】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石 西から撮影】Photograph 2013.9.21


この立石の後ろの立石山の頂上にイワクラがあるので、登ることにした。
登山道の途中にもイワクラとおぼしき岩組みが数箇所ある。
 【生名島の立石山 イワクラらしき岩がゴロゴロ見える】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群】
Photograph 2013.9.21

【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群】
Photograph 2013.9.21
【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群】Photograph 2013.9.21

【生名島の立石山の登山道の脇に存在する岩群 表面に図が彫られている】Photograph 2013.9.21

頂上のイワクラについて教育委員会の看板には以下のように説明している。
(北緯34度16分51.32秒、東経133度10分23.76秒)

この頂上部全体が祭祀の場(磐座)であり陽石(男性)、陰石(女性)があります。
昭和50年秋の文部省による弥生系高地性集落総合研究では、太形蛤刃石斧、石包丁、石鏃、磨石、ナイフ型石器などの石器類と、弥生式土器片が多量に出土しました。
弥生時代中期の「倭国大乱」と関連づけて考えられており、祭祀と軍事的防塞との複合遺跡として、極めて重要な文化財ですから、大切に保存しましょう。
昭和51年3月 上島町教育委員会・旧生名村文化財専門委員会

【立石山頂の遺跡の説明図 方位は筆者追記】
Photograph 2013.9.21

【立石山頂の遺跡の配置図 愛媛県立石山遺跡発掘調査報告より】

【立石山頂の遺跡の入口の岩門】Photograph 2013.9.21

【立石山頂の遺跡 南から撮影】Photograph 2013.9.21

【立石山頂の遺跡 北から撮影】Photograph 2013.9.21

【立石山頂の遺跡 陽石(右)と陰石(左)】Photograph 2013.9.21

【立石山頂の遺跡 南西にある方位石か? (割れの方向は60度)】Photograph 2013.9.21

頂上の岩群は、旧石器時代、弥生時代、奈良時代にわたって、祭祀が継続して行なわれてきた遺跡である。もちろん誰かを埋葬した古墳ではない。

この祭祀場の特徴は、中心部の6枚ほどの平板状の岩である。
古代祭祀の場合、中心に立岩(メンヒル)や岩屋を配して崇めるようになっているのが自然であるが、この平板状の平岩は何を意味しているのであろうか。まるで舞台のようである。
この上に巫女が立ち、シャーマンとして振舞ったのではないか、巫女に降臨したのは天空の太陽の神か月の神、それとも星の神だったのであろうか、天体崇拝を強く感じる祭祀跡である。

岩城島の妙見メンヒル
フェリーで再び因島に戻り、因島南インターから西瀬戸自動車道にのって、生口島北インターで下り、フェリーで岩城島(イワキジマ)に渡った。
積善山(セキサンザン)への登山道を登ると鳥居が見えてくる。そこに車を止めて尾根をしばらく歩くと妙見メンヒルに着く。(北緯34度15分37.04秒、東経133度08分47.27秒)

看板には次のように書いてある

妙見神社の巨石  上島町指定文化財

古代人の巨石崇拝の遺跡であり、江戸中期の記録に修験の場として登場するなど古くから信仰の場となっている。
いつの時代から崇拝の対象となったかは判然としないが、巨石崇拝は仏教思想の影響を受けながら今日に続いている。「妙」とは神の不思議、神秘で妙見とは菩薩の名、即ち妙見菩薩で国土の守護、貧窮救済のみ仏であり、諸願をかなえるものと信じられている。
              上島町教育委員会

高さ7メートルほどの大岩で数個の岩組みとなっている。この立岩の下が岩屋となっており、その部分に小屋が作られ、中に社が祀られている。
岩屋には、なにやら文字が彫られている。密教の霊符に似ているが何であろうか。
【岩城島の妙見メンヒル 遠景】Photograph 2013.9.21

【岩城島の妙見メンヒル】Photograph 2013.9.21

【岩城島の妙見メンヒル 北から撮影】Photograph 2013.9.21

【岩城島の妙見メンヒル 南から撮影】Photograph 2013.9.21

【岩城島の妙見メンヒル 岩屋部分】Photograph 2013.9.21

【岩城島の妙見メンヒル 岩屋部分に彫られた文字】
Photograph 2013.9.21

大三島 大三島神社
フェリーで再び生口島に戻り、生口島南インターから西瀬戸自動車道にのって、大三島インターで下り、大三島神社を参拝した。
(北緯34度14分53.50秒、東経133度00分21.26秒)
境内の看板のご由緒には以下のように書いている

日本総鎮守 大三島宮 大山祇神社由緒
御祭神 大山積大神

御祭神大山積大神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(古事記・日本書紀)天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる。海上安全の守護神である。
地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。
御分社は、全国に一〇.〇〇〇余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた。
明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一の大社として尊崇されている。
―境内看板より

仁徳天皇の御代に大山積神の子孫の乎知命(オチノミコト)が創祀したと伝えられる。
小市(オイチ)国造の越智氏ゆかりの神社である。

神体山である鷲ヶ頭山と安神山は、岩がごろごろしており、イワクラがあるのは容易に想像できる。
山の神であることから、そのイワクラは見てみたいが、今日は、登山する時間はない。

また、ここの宝物館は、国宝、重要文化財の武具の8割を収蔵し、国宝の島と云われる。鶴姫が着用した胸回りが広く胴尻が細い女性用鎧は見たかったのだが時間が無く断念した。
【大三島神社 拝殿】Photograph 2013.9.21

【大三島神社 神体山】Photograph 2013.9.21

伯方島の鉾山石神
大三島インターから西瀬戸自動車道にのって、伯方島(ハカタジマ)インターで下りて、鉾山(ホコサン)へ向った。
伯方島の最高峰で304メートル、非常に美しいピラミッド状の山である。宝股山トンネルを抜けて直ぐ左の道を登っていくと、トイレも設置された駐車場に着く。

ここから鉾山の山頂までは100メートルほどで、直ぐ目の前にあるのだが、ここからが大変だった。途中まで続いている遊歩道もあるのだが、距離が長そうなので、頂上まで真直ぐ続いている階段を選択した。
しかし、全く整備されていないため草木が背丈まで生い茂り、階段が見えない。草木をかき分けながら、きつい階段をやっとのことで登りきった。
尾根を少し歩くとお目当ての石神が現れてきた。
(北緯34度12分44.62秒、東経133度05分12.42秒)

看板にはこう書いてある。

伯方町指定文化財(史跡)
鉾山(宝股山)石神

平成十六年(二〇〇四)二月二十四日、伯方町指定文化財(史跡)に登録された。
海抜三〇四メートル。眺望に優れた景勝の地として近郷に知られた名山であるとともに、弥生時代に隆盛を極めた古代巨石信仰の御神体山(弥生系高地性祭祀遺跡)として、近郷の村人の信仰を集めた。特に本島の北浦側から見た当山の容姿は「鉾山」にふさわしい正三角形の神奈備の山(神の宿る山)である。いっぽう、東伯方では宝股山と呼んだ。これは山の南麓の有津に西明寺が創建された時、「宝股山西明寺」と呼んだのが始まりといわれている。

遺構および遺物
山頂に高さ二七〇センチの「石神」(石そのものが神)が屹立している。その他、石神を中心に巨石を配置して構成された神域を表す「磐境」や、神様が降臨される「磐座」などの遺構が見られる。石神には、今も石鎚神社が祭祀されている。この「鉾山石神」は女陰石である。
石神を中心とする山頂付近では、多数の土器破片(弥生中期)のほか、石鏃、石斧などが採集されている。また、五月には高井神社より本島に大蛇が渡り来て、鉾山に入るという伝承がある。
案内板設置者【有津。叶浦総代場】

北側から見ると階段状の磐座であるが、南側から見ると複雑に組み合わされた空間の中に石像が置かれている。もちろん石像は後から置かれたものであり、イワクラとは関係の無いものだろう。
そのイワクラは小ぶりではあるのだが、アート作品のような様相で、古代人の感性がびんびんと伝わってくる。

石神の北西に平行に並んだ石列がある。これも美しい。その下の岩も凄そうなのだが近づけなくて未確認である。
石神の南側には鎖場もあるので修験場でもあったようだ。南側の尾根にも磐座らしきものが見える。時間があれば調査するのだが、今日は時間がない。
この鉾山を詳細に調べれば、まだまだイワクラが発見できそうである。

伯方島インターから西瀬戸自動車道にのって、松山へ向った。
【伯方島の鉾山(宝股山)石神 北側から撮影】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神 東側から撮影】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神 南側から撮影】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神 南側にある方位石から望む】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神 芸術的な造形】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神  西側の平行に並んだ石列】Photograph 2013.9.21

【伯方島の鉾山(宝股山)石神  南側の尾根に見える岩群】Photograph 2013.9.21

松山 浮嶋神社
松山市内で一泊したあと、講演会は午後からなので、浮嶋神社に向った。
(北緯33度47分23.98秒、東経132度51分02.38秒)

浮嶋神社は、浮穴郡(ウケナゴオリ)の一宮であり、『日本三代実録』に貞観9年(867)2月5日の条には「伊予国浮嶋神に神位従五位の下を授く」とあり、朝廷から六町の神田を賜った古い歴史と格式のある神社である。
また、二百メートル西に長慶天皇(在位1368~1383年)の御稜といわれている「浮嶋稜」がある。南朝の長慶天皇がこの地に滞在し、崩御されたという伝承がある。明治41年(1908)に御稜参考地として申請を行ない調査を行なっているが結論には至っていない。
他に三社御面(サンジャゴメン)という鎌倉から室町時代に作られた三体の面が祀られており、雨乞い・雨止めの霊験があらたかであったと伝わる。
秋には175名で行なわれるお練り行事は、250年以上の歴史を誇り、村人によって受け継がれている。
【松山 浮嶋神社  拝殿】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社  本殿】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社  長慶天皇の御稜】Photograph 2013.9.22

御祭神は、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、大山積命(オオヤマヅミノミコト)、配祀として、雷神(イカヅチノカミ)、高龗神(タカオカミノカミ)が祀られている。

大山積命、雷神、高龗神は、越智益躬が大山祇神社の御分霊を祀ったと伝えられているので、もともとの御祭神は、可美葦牙彦舅尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊である。中でもウマシアシカビヒコヂノカミを祀る神社は珍しく、この神社の主神であろう。
『古事記』では、冒頭に登場する。

天地初めて発りし時に、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)の神。次に、高御産巣日(タカミムスヒ)の神。神産巣日(カムムスヒ)の神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。
次に、国稚く、浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時に、葦牙のごとく萌え騰る物によりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)の神。次に、天之常立(アメノトコタチ)の神。この二柱の神も、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。上の件の五柱の神は、別天つ神ぞ。
次に、成りませる神の名は、国之常立(クニノトコタチ)の神。次に、豊雲野(トヨクモノ)の神。この二柱の神も、独神と成りまして、身を隠したまひき。

すなわち『古事記』では、4番目の神として登場する。一方、『日本書記』では本書には登場せず、一書の第二、第三では、最初に現れた神として登場し、一書第六では、2番目に現れた神として登場する。

『古事記』のこの部分は別天つ神の五柱と、その後の二柱の独り神の話である。これ以後は二柱がペアとして現れる。
宇宙の中心を表すアメノミナカヌシ、その左右に配されたタカミムスヒとカムムスヒは、陽と陰の対比を表す。
アメノトコタチとクニノトコタチは、天と地という垂直に配された恒久不変に存在するものを表す。
トヨクモヌは、浮ける脂のごとく漂っていた豊富な物の根源が組合わされるという意味であろう。
そして、ウマシアシカビヒコヂは、「アシカビ」という葦が芽吹く様子を神名としていることから、生命の起源を意味していると考えられる。さらにそれが「ウマシ」つまり首尾よくうまくいったことを暗示しているようだ。

生命の起源を表す神であり、非常に重要な神である。浮嶋神社のウマシアシカビヒコヂが数多くの神を産むイザナギとイザナギを従えているのもふさわしい。

相原宮司にお願いし、玉垣内の磐座を見せていただいた。
拝殿と本殿は南北に配置されており、磐座は、拝殿と本殿の間の東側に鎮座している。
三つの石から構成されており、中央が可美葦牙彦舅尊の依り代、左右が伊弉諾尊と伊弉冉尊の依り代である。社殿建設が行なわれる以前の古代祭祀様式と伝えられる。
中央の可美葦牙彦舅尊の磐座は中央部がへこみ、神が座りやすいような石である。さらに上から見ると菱形をしており、相原宮司のお話では、ひな祭りの菱餅に代表されるように、菱形は女性を表すものであるそうだ。ウマシアシカビヒコヂが生命の起源を表す神であるとすると<生命を産み出す女性を模った磐座であることに納得する。ただし、神名に「ヒコ」という男性を表す言葉がついているのは謎である。
【松山 浮嶋神社の磐座】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社の磐座 中央の石】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社の磐座 中央の石】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社の磐座 北の石】Photograph 2013.9.22

【松山 浮嶋神社の磐座 南の石】Photograph 2013.9.22

相原宮司に赤穂から来たことを告げると、赤穂からひょんの実を探して来た人がいるということを聞いた。
この実を笛にするとヒョウヒョウと鳴ることからひょんの実という名が付いたという。
しかし、本当はイスノ木の葉っぱで、葉に虫が寄生してこのようになるらしい。
この浮嶋神社のひょんの実のように立派な形になるのは珍しいらしい。
後で調べたところ、梅原猛氏がイスノキの古木がある赤穂坂越の大避神社を訪れた際、「ひょんの実に 似たるうつぼで 流れ着き」と句を詠んだことにちなんで、この実を赤穂緞通の染料に利用してまちおこしに利用したようである。
もちろん、うつぼ船で坂越に流れ着いたのは、あの秦河勝のことである。
(坂越の大避神社のレポートはこちら
【松山 浮嶋神社境内に落ちていたひょんの実】Photograph 2013.9.22

道後温泉 玉の石
講演会まで、まだ少し時間があるので、道後温泉の玉の石を見に行った。
道後温泉本館の北側にそれはある。

消えかかった立て看板に由来が書かれていた

玉の石の由来
むかし大国主命と少彦名命の二神が道後温泉に来られたおり少彦名命は病にたおれられたが湧き出る霊泉に浴せられ病たちまち癒え「ましばし寝ねつるかも」といって踐み健○立ちあがった時の石と伝えられている。(伊予国風土記逸文による)
大正天皇皇太子殿下の○ ご駐駕のところ
明治三十六年十月十六日

石の表面に、小さな足跡のくぼみがある。
玉の石に道後温泉湯をかけ、「病気平癒」「縁結び」「商売繁盛」の祈願をするようになっている。
【道後温泉 玉の石】Photograph 2013.9.22

白石の鼻巨石群フェスティバル
白石の鼻巨石群フェスティバルの講演会は、12時30分から始まり、まず左野勝司氏の「世界の石文化」という基調講演が行なわれた。
左野氏は世界で活躍されている石工で飛鳥建設の社長である。
モアイの修復作業や高松塚古墳の石室解体の話を聞かせていただいた。中でもモアイの実物の石を触らせていただき、非常にもろいことが実感できた。これならば固い石器を使って簡単にモアイを造形できたであろう。
次の講演は、篠澤邦彦氏の「瀬戸内海巨石文化圏最新調査報告」という研究発表が行なわれた。

篠澤氏は、2008年1月に偶然通りかかった白石の鼻の三つ石という巨石がオーパーツであると直感し、研究を行なった結果。三つ石のスリット部分に春分秋分の日の入りの太陽が入ることを発見し、さらに三つ石の対岸にある亀石には冬至の太陽が、三つ石と亀石の間の石列には夏至の太陽が入ることを発見し、この白石の鼻が古代の天体観測施設であることを証明された。最近は、しまなみ海道にも巨石が存在することから「瀬戸内海巨石文化圏」を提唱されている。
このしまなみ海道の巨石は、昨日見てきたところである。確かに太陽崇拝が色濃く残っている地域のようである。
【白石の鼻 (右)白石龍神社】Photograph 2013.9.22

【白石の鼻 夏至の太陽はこの海岸の石の間に入る】Photograph 2013.9.22

【白石の鼻 亀石 冬至の太陽はこの亀石の隙間に入る】Photograph 2013.9.22

【白石の鼻 亀石 人工的に楔石が組み入れられている】Photograph 2013.9.22

白石の鼻に場所を移動して、秋分観測会が行なわれた。
(北緯33度54分24.47秒、東経132度42分34.09秒)
その場所には100名を超える人が集まり、秋分の落日の光が、三つ石のスリットに入るのを観測した。
スリットと呼んでいるのは、逆三角形の部分ではなく、その左上の細い隙間である。このスリット通して太陽が見えるのであるが、これがいかに計算されつくした事であるかを、理解してもらうには少し説明が必要である。
遠くの光源と観測者の間に穴を開けた画用紙を置き、観測者が画用紙の穴を通して光源を見るのは簡単である。しかし、この画用紙を筒に変えた場合、観測者がその穴から光源を見るのは難しい。画用紙の筒と光源を平行にし、そのライン上に観測者が立たないと無理である。三つ石のスリットも石の幅があるので、この筒のようなものである。顔を1つ分動かすともう向こう側が見えないのである。そのような条件のライン上に春分と秋分の太陽が入るのである。太陽は当然ながら曲線を描いて沈んでいく、スリットと太陽の沈む曲線が交わったピンポイントの条件を満たして初めて起る現象である。それが、さらに春分と秋分の日という特別な日に起るのである。これは、三つ石が計算されて造られたことを意味する。偶然で片付けることなどできはしない。

さらに、この現象をこの方向から観察すればいいとでもいうように、オレンジの線が入った石まで据えてある。
【白石の鼻 三つ石】Photograph 2013.9.22

【白石の鼻 三つ石 春分と秋分の太陽はこの丸印の隙間に入る】Photograph 2013.9.22

【白石の鼻 三つ石の対岸にあるオレンジ線の入った石】Photograph 2013.9.22

参加した人たちは、そのライン上に集まって古代から続く現象を体験した。
ただし、実際に見ることができるのは、スリットを通して海の上に描かれた光線であり、太陽自体が覗けるわけではない。
三つ石を通して見た夕日は、後に示す篠澤氏の写真のようであるが、このような写真を撮るには、海の中に入らなければならないという。

そうであるなら、海岸線がもっと低かった時代に、三つ石の天文観測が行なわれていたことになり、それは縄文海進が始まる前か、少なくとも始まって間もない頃ということになる。縄文海進は19000年前から始まり6000年前にピークとなる。つまり10000年前あたりの縄文時代の初期ということになる。これは篠澤氏も主張していることである。

篠澤氏は、この他にも、白石の鼻の巨石群が人造物である数多くの証拠を発見されている。詳しくは、篠澤氏のホームページや著書「伊予のストーンヘンジ(eブックランド社)」を見ていただきたい。

前述したように、冬至も夏至も観測できるというのは、ここが天体観測施設であることを示しており、縄文時代にこのような科学的な設備があったことは、古代に巨石文明があったという証拠の1つである。
【白石の鼻 三つ石に入った太陽が照らす海面】Photograph 2013.9.22

一瞬、光の筋が海面を照らしたが、うまく撮れていないので、最後に篠澤氏が行なっている 松山・白石の鼻巨石群調査委員会のホームページ から写真を転記させていただいた。
 【松山・白石の鼻巨石群調査委員会HPより 三つ石に入った秋分の太陽 2010年9月24日撮影】

【松山・白石の鼻巨石群調査委員会HPより 亀石に入った冬至の太陽 2009年12月22日撮影】




生名島から、岩城島、伯方島、松山と巡ってきたが、しまなみ海道には、確かに巨石文明の痕跡が残っている。
瀬戸内海が陸地だった頃、数百トンもある岩を動かし、太陽の動きに合わせて精密に組上げ、岩に芸術を刻み込んだ古代人がいたのである。
瀬戸内海の海底には、彼らが築いた巨石文明が眠っているかもしれない。
2014年2月16日  「しまなみ海道のイワクラ」 レポート 平津豊