諏訪大社

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 Share (facebook)  Report 1990  平津 豊 Hiratsu Yutaka

長野県の諏訪地方は、高千穂や出雲と並ぶミステリーゾーンである。
諏訪明神の武神としての名声は非常に高い。神功皇后の新羅攻めの時、坂上田村麻呂の東北平定の時に参戦している。また、鎌倉時代には北条氏が諏訪社を各地に勧請した。蒙古来襲のときにも天皇が諏訪明神に祈ったと言われる。
まずは、諏訪湖の御神渡り(オミワタリ)が有名である。湖にはった氷が岸から向こう岸に向かって割れるという自然現象である。男神、建御名方(タケミナカタ)と女神、八坂刀売(ヤサカトメ)が仲たがいし、湖の両岸に別れて住まうようになったが、年に一度だけ男神が懐かしんで女神に会いに行くという伝説となっている。
たしかに諏訪湖の北には諏訪下社があり、南には諏訪上社がある。しかし、それだけではなく、下社には秋宮と春宮があり、上社には本宮と前宮がある。つまり諏訪大社は4社から構成されている。
【諏訪 下社 秋宮】                  【諏訪 下社 春宮】
下社の秋宮と春宮は、半年ずつに神霊の御遷座が行われる二座一社の形を取っている。八坂刀売(ヤサカトメ)という女神を祭る秋宮と春宮、どちらも神殿はなく、拝殿があるのみ。御神体は、拝殿の奥にある御神木である。諏訪大社の御神体が木というのは、納得できる。
諏訪には、奇祭、御柱祭がある。7年に1度、八ヶ岳と霧ヶ峰から切り出した16本の大木を数千人で山から曳きおろして、4社の4隅に押し立てるという勇壮な祭りである。しかし、その起源は定かではない。
【諏訪 上社 本宮】 【諏訪 上社 本宮の御神体 硯石】
上社 本宮は、最も参拝者が多く、普通、諏訪大社と言えばここを指すのであろう。宝物殿などもあり立派である。この神社も拝殿しかなく、御神体は守屋山と硯石と呼ばれる磐座(イワクラ)である。ただこの硯石は、右上の写真の奥にあるのだが、見ることはできない。また、ここの神社の配置は、奇妙である。硯石を中心に建っていない。何か深い意味がありそうだ。

 

上社 前宮は、最も規模が小さくさびれているが、4社の中では、最も神聖な空気に感じられた。
この前宮は、上社の前宮は、中世末まで、大祝(オオホウリ)の居館があったところである。大祝とは神(ミワ)氏が現人神として生神となった者を指す。祭る側は、神長官として守矢氏が務める。守矢氏は、諏訪神が入ってくる前の土着神ミシャグチを祭る家であった。諏訪の真の姿は、上社に色濃く残っているようである。
【諏訪 上社 前宮】
諏訪神であるタケミナカタノ神は、「古事記」の大国主神の国譲りに登場する。
アマテラス大神が剣神のタケミカヅチノ神と船神のアメノトリフネノ神を出雲のオオクニヌシノ神のもとにつかわし、葦原中国(アシハラノナカツクニ)を天神(アマツカミ)の御子にわたすように迫った。オオクニヌシは長男のヤヘコトシロヌシノ神に意見を求めたが、ヤヘコトシロヌシノ神は、あっさりと承諾した。そこへ次男のタケミナカタノ神が大岩を軽々と手の先に差し上げて現れ、力比べを挑んだ。しかしタケミカヅチノ神になげとばされて、タケミナカタノ神は、これはかなわないと逃げ出し、科野(シナノ)の国の州羽(スワ)の海まで追いかけられた。そこでタケミナカタノ神は、この土地以外のところには行かないから命は助けてくれと命乞いをしたという。この後、オオクニヌシノ神は、葦原中国を天神の御子わたすこととなる。
この話は、「日本書紀」にも「出雲風土記」にも出てこない。一方、明神が諏訪に入ってくるとき、土着の守矢神(モリヤノカミ)を打ち負かした征服者として伝えられている。このことから、建御名方(タケミナカタ)は、本来、出雲神話とは無関係であったが、「古事記」を編成した多氏一族の太安万侶が、武神として名声の高かったタケミナカタを天孫降臨神話に組み入れたという説に信憑性がある。なぜなら多氏は建御雷(タケミカヅチ)を祀る一族だからだ。

(Photograph 1990)