尖石と縄文遺跡

 Report 2018.9.2 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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尖石遺跡
2018年5月27日に長野のシンガーの葦木ヒロカ氏と篠原正司氏の案内で、長野県茅野市の縄文遺跡を巡った。
茅野の遺跡の中では、尖石縄文考古館が最も有名である。
尖石遺跡は、1893年に小平小平治が学会に発表してから鳥居龍蔵や伏見宮博英王殿下が少し発掘を行ったが、本格的に発掘し続けたのは宮坂英弌という在野の研究者である。宮坂氏は、尖石遺跡を調査して、縄文の集落を研究した。尖石遺跡の南北の2つの居住地区に挟まれた地区には住居跡が存在せず、列石や小竪穴が存在する社会的地区が存在することを発見し、縄文時代の集落の構造に初めて言及した。1942年に国の史跡保存地区に指定されるまで、宮坂氏は個人の力で発掘を続けのである。イワクラ学においても各地で地道に研究を続けている在野の研究者が多く存在するが、大変勇気を貰える実例である。
【与助尾根遺跡の復元住居】Photograph 2018.5.27

尖石
この尖石遺跡のはずれに、発掘が開始される前から尖石という名の岩石が存在していた(北緯36度00分44.44秒、東経138度13分55.90秒)。縄文遺跡の名前もこの岩石に因んだものである。現在は、注連縄がかけられ、四方に御柱を立てて祀られている。側に置いてある小さな祠は、昭和初期の写真にも写っているので、尖石遺跡において、本格的な発掘が始まる前から祀られていたと考えられる。
岩質は安山岩で頂上部東面の窪みは人工的に削ったものなので縄文時代に磨製石器の砥石として用いられたのではないかと考えられている。南面の凹凸も、縄文時代よりももっと古い時代に削った跡が風化したものの可能性がある。
また、南西面の上部にも削り面が見られるが、これは新しく、誰かのいたずらかもしれない。
この尖石の下に宝物が隠されているという言い伝えがあり、村人がこっそり掘ったところ、その夜に熱病にかかって死亡したと伝わっている。尖石は「祟り石」の性格も備えていたようである。
この尖石は三角錐の形をしており、恵那笠置山のピラミッド石に非常に良く似ている。つながりがあるかもしれない。
各面と稜線の方位を測定してみると、東面はぴったりと東に向いていて、西の稜線もほぼ、真西(275度)を向いている。また、北東の稜線は聖なる山である蓼科山を向いているのである。
このように尖石から意味のある方位が見つかることから、この尖石は自然の岩石を祀ったものではなく、私は、三角錐に整形した岩石を方位を意識して、ここに置いたのではないかと考える。
【尖石遺跡】Photograph 2018.5.27

【尖石】Photograph 2018.5.27

【尖石 南から撮影】Photograph 2018.5.27

【尖石 東から撮影】Photograph 2018.5.27

【尖石 北から撮影】Photograph 2018.5.27

【尖石】Photograph 2018.5.27

【岐阜県笠置山のヒミカ石】Photograph 2017.4.9

【尖石の方位図】 平津豊作図
【聖山 蓼科山】Photograph 2018.5.27

縄文のビーナスと仮面の女神
さて、この尖石縄文考古館には、縄文のビーナスと仮面の女神の2体の土偶が展示されている。しばらくの間、他の博物館に貸し出されるそうであるが、当日は、運良く本物を見ることができた。
1986年に茅野市棚畑遺跡から出土した縄文のビーナスは、縄文時代中期のものとされている。模様のある大きな帽子が特徴的である。縄文人はこのようなおしゃれな帽子を被っていたのである。豊かな精神文化を築きあげていたことが想像できる。
土偶に乳房が表現されていることから女性と考えられ、さらに豊満な体は妊娠の姿ではないかといわれている。しかし、妊娠を表した土偶によく見られる正中線の表現は見られない。また、縄文の土偶にしては、珍しく壊されずに大切に埋められていたことから、この土偶は、他の土偶とは違った理由で造られたのではないかと推測する。
粘土に雲母が混ぜられているため、磨き上げられた表面はキラキラと輝いていて、なんとも美しい国宝土偶である。
【縄文のビーナス】Photograph 2018.5.27

【縄文のビーナス】Photograph 2018.5.27

【縄文のビーナス】Photograph 2018.5.27

【縄文のビーナスの表面】Photograph 2018.5.27

もう一つの国宝土偶が仮面の女神である。
2000年8月に茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した仮面の女神は、約4000年前の縄文時代後期のものとされている。
逆三角形の仮面と全身の渦巻き模様が特徴的で、縄文人の芸術性に感心するばかりである。逆三角形の仮面は、頭に紐が表現されているため、明らかに人が仮面を被っていた姿を造ったものである。仮面からは呪術的な儀式を想像する。
この土偶の陰部は女性のものであるが、乳房も正中線の表現も見られないため妊娠の姿を表したものではなく、シャーマンを写したものと考えられる。
表面には細かな磨きの跡があり、時間を費やして丁寧に造られた事がわかる。
この仮面の女神の最大の謎はその出土状態である。穴の中に横たわるように埋められていたが、右足が壊れて胴体から外れていた。右足はそのままでは脚の付け根にはまる角度ではなく、その脚の付け根には破片がはめ込まれていた。つまり、人為的に右足だけを取り外して、それを元に戻して埋められていたことになる。考古学的な検証によって、次のような順番で埋葬されたことが分かっている。①遺体を穴に安置して土を被せた。②土偶を埋める穴を掘った。③土偶の右足を壊して破片を右足の付け根に入れて穴の中に置いた。④右足を元の位置に戻すように戻して土偶全体を埋めた。
縄文人がなぜこのようなことを行ったのかはわかっていない。
【仮面の女神】Photograph 2018.5.27

【仮面の女神】Photograph 2018.5.27

【仮面の女神】Photograph 2018.5.27

【仮面の女神の表面】Photograph 2018.5.27

【仮面の女神の出土状況】 『仮面土偶発掘の記録』より

古代人の死生観については、古事記に記載されている。

「且(しばら)く黄泉神と相論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。かく白してその殿の内に還り入のし間、甚久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御角髪(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱一箇取り闕(か)きて、一つ火(び)燭(とも)して入り見たまひし時、蛆(うじ)たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黑雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、幷(あは)せて八はしらの雷神成り居りき。

イザナギがイザナミに会いたくて、黄泉(よみ)の国を訪れ、イザナミに姿を見るなといわれたが、その禁を破って見てしまった、イザナギの体が蛆だられで、8つの雷神が居たという場面である。
現在では医師が規定に基いて人の死を判断するが、古代では、眠っているのか死んでいるのかの境があいまいであり、長い間、死亡した人と生活を共に続けていたに違いない。つまり、縄文時代には、現在のように死が生活と隔離されたものではなく、死と生が生活の場に存在していたのである。その様子が『古事記』にも反映されているのである。

いつまでも目を覚まさない死人が目を覚ますように、土偶を造り壊して土に埋めたのではないだろうか。
土偶を壊して土に埋めるという行為は、死人を蘇らせる願いであり、死と再生を結びつける儀式だったのではないのか、つまり、土偶の一部を傷つけて土に埋めるという行為は、人間の身代わりであったのではないかと考えるのである。

中ッ原遺跡
この仮面の女神が出土した中ッ原遺跡は、約6000年前から約3000年前の竪穴住居跡が200箇所も存在している縄文遺跡である(北緯36度01分49.09秒、東経138度12分50.30秒)。
この場所には仮面の女神が出土した様子が発掘当時のままで再現されている。
【仮面の女神の発掘の様子の再現】Photograph 2018.5.27

円形に並んだ柱跡と四角形に並んだ柱跡が見つかっており、ここでは、一番大きな穴に8本の柱を長方形に立てて再現されている。長軸の方位はほぼ南北である。

【中ツ原遺跡】Photograph 2018.5.27

石川県のチカモリ遺跡は、、略半載形木柱根250点余、丸太の木柱根45点、板状材52点余が出土しており、他の地域の遺跡から出土した木柱根が数本から数十本であるのに比べて、この多さは特異である。この北陸にあったとされる巨木文化圏を語るのに外せない遺跡である。
このチカモリ遺跡でも円形に並んだ柱跡と長方形に並んだ柱跡が見つかっているが、チカモリ遺跡では、円形の柱跡がウッドサークルとして再現されている。
【チカモリ遺跡】Photograph 2012.8.11

【チカモリ遺跡の配置図】平津豊作図

この他にウッドサークルとしては真脇遺跡が有名である。一方、四角形では、三内丸山遺跡の六本柱建物跡が有名である。

これらの巨木が大きな建物の柱なのか、御柱のような祭祀場所だったのかは、今となっては想像するしかない。
いずれにしても、このような縄文時代の巨木技術が、出雲大社の巨大神殿を生み出したことは想像に難くない。

この中ッ原遺跡で、いちばん興味を持ったのは、三日月形に並べた石である。地元の篠原正司氏によると、発掘前の状態を維持しているそうである。
【中ツ原遺跡の列石】Photograph 2018.5.27
このような石畳は珍しいものである。
タヒチの古代祭祀跡のタプタプアテアでは、立石に生贄を捧げて、その前の石畳に神官が這いつくばって神からのお告げを聞いていたという。
この石畳も祈りを捧げる場所だったと考えられないだろうか。

そして、この石畳は、やはり三日月を模ったものではないだろうか。
夜の空に輝く月は、新月から三日月、上弦を経て満月となり、下弦、二十六夜を経て新月に戻る。さらに見える方角も変化する。これを縄文人は死と再生の概念と結び付けて、月に復活の祈りを捧げた可能性がある。
月は地球に大きな変化をもたらす存在である。
月の満ち欠けによる夜の明るさの変化と共に、月が真上に位置すると月の引力で海の潮が満ちる。このような月のリズムは、動植物の生命とも何らかの関連性が認められており、縄文人はこれを敏感に感じ取っていたのかもしれない。

(イワクラハンター 平津豊)
謝辞
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった篠原正司氏および葦木ヒロカ氏に感謝いたします。
参考文献
1.茅野市尖石縄文考古館展示図録、茅野市教育委員会、(2017)
2.尖石発掘記、茅野市尖石縄文考古館、(2002)
3.仮面土偶発掘の記録、茅野市尖石縄文考古館、(2001)
4.古事記 ワイド版岩波文庫 倉野憲司校注、岩波書店、東京(1991)
2018年9月2日  「尖石と縄文遺跡」 平津豊