高島・白石島のイワクラ

 Report 2016.8.28 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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■はじめに
2016年5月28日、29日に1泊2日のイワクラツアーが行なわれた。
イワクラ学会が、岡山県笠岡市の高島・白石島を訪れるのは、11年ぶりになる。
イワクラ学会では、発足当時にこの高島・白石島に着目し、多くの論文が会報に残っている。これらの論文を参考にしながら、高島と白石島のイワクラについて考察する。
■高島のイワクラ
笠岡港で集合し、11時20分発の連絡船で高島に向った。高島港では、高島在住のイワクラ研究家の薮田徳蔵氏と薮田氏を手伝っておられる中村美智恵氏と山口伸治氏が出迎えてくれた。
薮田徳蔵氏は、この高島のイワクラを研究し、説明看板を立てたり、整備されたりしている方である。11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただき、今回も私たちのツアーのために草刈などをしていただいた。薮田氏はご高齢ではあるが、二人の若い方が跡を継いでいただけるのではないかと心強い思いがした。
【高島港】Photograph 2016.5.28
■吉備の高島
イワクラの話に移る前に、少し高島の事を説明しておく。
岡山県で「高島」というと、「吉備の高島」を連想するのは至極当然のことである。
神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)尊(後の神武天皇)が日向国の高千穂宮から饒速日(にぎはやひ)命が支配する浪速国に攻める途中に立ち寄って、船と兵糧を蓄えたのが「吉備の高島」である。
『日本書紀』には、

「乙卯年の春三月の甲虎の朔己未に、吉備国に徙(うつ)りて入りましき。行館(かりみや)を起(つく)りて居す。是を高嶋宮と曰ふ。三年(みとせ)積る間に、舟檝(ふね)を脩(そろ)へ、兵食(かて)を蓄へて、將に一たび舉げて天下を平けむと欲す。」

『古事記』には、

「阿岐(あき)國の多祁理(たけりの)宮に七年坐しき。またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高嶋宮に八年坐しき。」

と書かれている。

神武天皇の滞在期間が、『日本書紀』は3年、『古事記』は8年と異なるものの、両書ともに「吉備の高島」と明記されており、広島から岡山にかけて神武天皇の伝承も数多く残っていることから、この「吉備の高島」は実在するとして、その場所について議論されてきた。

「吉備の高島」の候補地は非常に多く、主なものを挙げると、広島県福山市田尻町字高島の八幡神社、広島県福山市内海町田島の皇森神社、広島県尾道市浦崎町字高山の王太子神社、広島県福山市柳津町の竜王山、広島県尾道市高須町の大元山、岡山県倉敷市児島塩生字高島の産土荒神社、岡山県岡山市中区賞田の高島神社、岡山県岡山市南区宮浦高島の高嶋神社などである。この中で、宮浦の対岸に浮かぶ無人島の高島は、東5キロメートルに五瀬命が滞在した安仁(あに)神社が鎮座しているなど周辺伝承が有力であったため、昭和初期(1938年~1940年)に、文部省が聖蹟伝説地に認定している。
そして、この笠岡の高島も、その「吉備高島」の論地の一つである。

高島の沖に浮かぶ明地島から1万数千年前(旧石器時代)の遺物が発見されており、高島にも古くから人が居住していたと考えられる。高島から出土した、石器、土器、貝類などの出土品は、地元の人によって建てられた「おきよ館」に展示されている。出土品と言えば、高島の河田浩二氏の自宅から発見されたイラン製の青銅剣は有名である。なぜこの島に3000年前のイランの耳形柄頭長剣が存在するのか、不思議なことである。

また、この「おきよ」は、神武天皇の妃である興世(おきよ)姫命にちなんで付けられたようだ。興世姫は、『古事記』や『日本書紀』には登場しないが、この興世姫を祀る神島(こうのしま)神社が、高島の北対岸の神島に鎮座している。もともとこの神島神社は、高島の王泊(おうどまり)に鎮座していたという。

神島神社の社伝によると、

「神武天皇は、日向から東征するとき、吉備高島に八年間駐屯後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第1代践祚の大偉業を成す。妃興世姫命は、部下を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産土神と斎き奉る。」

と伝わっている。

この高島には、神武天皇が吉凶を占ったとされる神卜山(かみうらやま)、神武天皇が天津神に供える水を取ったとされる真奈井(まない)、神武天皇が船を止めたとされる王泊(おうどまり)、吉備高島行宮の遺跡とされる高島神社などがあり、島民は、この笠岡の高島こそが「吉備の高島」であると主張し、大正八年には、「高島行宮遺阯」と刻んだ高さ8メートルの石の碑が造られている。

■西のイワクラ群(子妊石)
話を高島のイワクラに戻す。この島の中央には、「王久(おく)遺跡」とよばれるイワクラ群があり、その「王久遺跡」を中心として東西南北にイワクラ群が存在する。今回のツアーでは、「王久遺跡」と西のイワクラ群を見学した。

高島港から南西に400メートルほど歩くと、巨石が見えてくる。(北緯34度25分38.37秒、東経133度30分09.38秒)
【亀石】Photograph 2016.5.28
【茸石】Photograph 2016.5.28
【陽石】Photograph 2016.5.28
「亀石」、「茸石」、「陽石」と名付けられた巨石を見ながら登ると、見晴らしの良い山の頂上に、大女の子供産み落し伝承の残る「子妊(こはらみ)石」がある(北緯34度25分39.12秒、東経133度30分07.52秒)。巨大な女陰石である。この「子妊石」の前で薮田氏から説明を受けた。
東西幅約6メートル、南北幅約8メートル、高さ約5メートルの「子妊石」は、台座の上に3点のみで接触して据えられていることなど、「子妊石」の構造を詳しく説明していただいた。

【子妊石 北から撮影】Photograph 2016.5.28

【子妊石 南から撮影】Photograph 2016.5.28

【子妊石 女陰部分】Photograph 2016.5.28

【孫姫石】Photograph 2016.5.28

【子妊石 産道】 Photograph 2016.5.28

【子妊石 下部の接地部分】 Photograph 2016.5.28

【達磨石】 Photograph 2016.5.28

この「子妊石」には、大女の子供産み落し伝承が残っている。その伝承は、以下のようなものである。

「昔々、高島の北の浜である北窓石に、采女という心が優しく力が強い大女と、猿の猿六という頭の良い小男が住んでいました。遥か沖に魚の群れが泳いでいるのに北窓石には回遊していません。そこで猿六は、当時陸続であった明地島との間に水路を掘って瀬戸を造ることにしました。二人は一生懸命働き、瀬戸を完成させると、魚の群れが押し寄せ、豊漁となりました。北窓石と明地島の間の瀬戸を「えんろくろ瀬戸」と呼ぶのは、「猿六苦労」が転訛したものです。
ある日、突然、魚が獲れなくなりました。原因を調べると、南の浜である本窓石に住む、魔亜羅という力の強い狡い大男が、岬の窓の端の小山にトンネルを開けて、陸地から海に行けるようにし、トンネルの外の大岩に乗って、回遊してくる魚を全部横取りしていました。
両者の間に漁業権の争いが起こりましたが、大岩を西の山の頂に乗せたものが権利を取るということで話がまとまりました。
大男の魔亜羅は、勝ったも同然と大喜びで、大岩を抱えて、急な坂を一気に駆け登りましたが、八合目付近で力尽きて、大岩は浜まで転げ落ちてしまいました。
今度は、采女の番です。大女の采女は身重の体でしたが、大岩を抱えると浜辺を南に回り、船堀の方から緩やかなコースを、一歩、一歩登って、とうとう山頂にたどり着きました。「やっこらしょ」と大岩を置いたとたん、ポロンと可愛い姫が生まれました。それが孫姫石です。処女石とも呼ばれます。
勝った采女達は、魔亜羅にこの大岩に上がってもらい魚の群れの見張番をしてもらいました。
時は移り、采女は精魂出し尽くして抱え上げた大岩の精となり、美しい女神石に化身して、高島の西の海人や女人を護りました。
心を改めた魔亜羅は、高島の東南の海辺に立って東を護り、その場所は金光の地名がつきました。」(河田善治郎・薮田徳造:「高島子妊石伝説」より平津意訳)

まず、この伝承には、岩を動かす力持ちの人が登場するが、後述する白石島でも同じような話を聞いた。岩を動かす技術を持った一族を象徴した表現ではないかと推測する。そして、この伝承には、水路を掘る、トンネルを掘る、大岩を山の上に据えるという土木工事の様子が描かれていることから、過去に高島で大きな工事が行われたことを伝えているのではないかと思える。
その伝承を信じると、采女が、海岸からこの山の上に運んで据えた大岩が「子妊石」ということになる。
「子妊石」の形状は、窪みが複雑に形成されていて異様である。風化か波の浸食か、と悩んでいると、武部正俊氏の調べでタフォニではないかということになった。タフォニとは、海水が岩に浸み込み乾燥によって塩が結晶化するときの膨張で岩が徐々に割れていく現象である。海外線のみならず潮風が当たる山の上でも起こるようである。
しかし、周りの岩石と比べてこの「子妊石」だけ、このタフォニ現象が激しいのはなぜであろうか、やはり、別の場所から運ばれてきたのであろうか。薮田氏の話によると、「子妊石」の頂上部と南の下部に牡蠣殻が付着していたそうである。そうなるとこの「子妊石」は海岸から標高50メートルの位置に人の手で持ち上げられたことになる。

「子妊石」のスリットは沖の「天目岩」を指しているそうである。この「天目岩」は、江戸時代(安政)に外国船を迎え撃つ台にするために破壊されてしまったそうであるが、薮田氏のスケッチ図によると、高さ36メートルの塔のような形状をしており、人工島の可能性もある。
また、伝承に出てくる東の海岸の金光には、「子妊石」と対となる男根石があったが石材利用のため破壊されてしまったそうである。
【子妊石の接地図】 案内看板より

【子妊石の上部の様子】 案内看板より

【天目岩のスケッチ】 案内看板より

「子妊石」の東に古い石割の跡が残っている。一般に、このような矢穴は中世に中国大陸から伝わったとされ、築城時代に盛んに用いられた石割り方法であるが、この矢穴は非常に古そうである。矢穴は古代エジプトでは既に用いられていた技術で、日本でも平城宮跡で確認されていることから中世以前に用いられていた可能性は非常に高い、研究の価値がある。
【子妊石近くの矢穴跡】 Photograph 2016.5.28

【子妊石近くの石割跡】 Photograph 2016.5.28

私達は、薮田氏が差し入れてくれたビールをいただきながら昼食をとった。イワクラの前で食べる弁当は格別である。
■王久遺跡(天津磐境)
次に、「王久遺跡」に向った。一度山を降り、隣の山を登ると、「どんび石」と「萬古石」と名付けられたイワクラが現れた(北緯34度25分43.11秒、東経133度30分19.35秒)。
「どんび」とは、地元の方言で男根のことであり、イワクラの形状そのままに薮田氏が名付けたようだ。女陰である「萬古石」の割れ目から「どんび石」を眺める方向は、ぴったりと0度(真北)であり、人為的に配置されたと考えられる。薮田氏によると、もともと存在していた「萬古石」の東側の石に対して、西側の石と「どんび石」を運んできて構築しているということである。
【どんび石】 Photograph 2016.5.28

【萬古石】 Photograph 2016.5.28

次に、「岩戸石」と「踊り石」という巨石に向った。この2つの石の名前は、古くから伝わる名前である。「岩戸石」は、台座の上に立方体の巨石が重ねられている(北緯34度25分42.12秒、東経133度30分21.25秒)。案内していただいた中村美智恵氏は、この岩の上に寝転ぶと気持ちがよいので、ときどき訪れるそうである。
「踊り石」は、台石の上に乗せられた巨大な岩石で亀のようにも見える(北緯34度25分41.11秒、東経133度30分20.05秒)。この上で神にささげる踊りを踊ったと伝わる。
【岩戸石】 Photograph 2016.5.28

【踊り石】 Photograph 2016.5.28

最後に、「天津磐境(あまついわさか)」に向った。山の頂上部に造られたストーンサークルである(北緯34度25分40.21秒、東経133度30分22.06秒)。2段または3段の石組みで囲まれている中央部で祭祀を行なったのであろうか、西のイワクラや東のイワクラが見渡せる高島の中心であり、重要な場所であったと考えられる。
【天津磐境のストーンサークル】 Photograph 2016.5.28

【天津磐境の中心部】 Photograph 2016.5.28

【天津磐境の配置図】 薮田徳蔵,イワクラ学会報2号より

 
【天津磐境の配置図】 薮田徳蔵,イワクラ学会報2号より

【天津磐境の近くの亀石】 Photograph 2016.5.28

【天津磐境の近くの石】 Photograph 2016.5.28

船の時間の都合で、高島の滞在はここまでであった。薮田氏と再会を約束して別れた。
船に乗り込むと、乗客がこの島からこれだけの人が乗り込んでくるのは珍しいと呟いた言葉が耳に残った。この高島に人が訪れるのは希なことのようである。

高島の昔の姿は、禿山であったが、水が豊富な島であったそうだ。それが今では木々が生い茂り、ジャングルのようになっている。薮田氏達が伐採などの整備を行なっているが間に合わず、イワクラは緑の中に、どんどん沈んでいっている。
このままでは、誰もイワクラに近づけなくなり、忘れ去られてしまうのではないだろうか。早急な対策が必要である。
【高島の案内図 薮田徳蔵氏作】

■白石島のイワクラ
白石島に渡った私達を待っていてくれたのは、白石公民館長の天野正氏である。天野正氏は、11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただいた方で、この白石島のイワクラについて最も詳しい方である。

■比丘尼岩
まず、港からすぐ東の山の中腹に見える巨石に登ることにした。38メートルの高さに明釣神社が鎮座している。もちろんこの神社は、50メートルの高さにある山の上の巨石を祀る社である。その巨石は、形が頭巾を被った尼僧の姿に似ている事から「比丘尼(びくに)岩」と名づけられ、それが「みくに」に転訛し、「皇国岩」という字が当てられたりもしている(北緯34度24分32.19秒、東経133度31分12.58秒)。高皇産霊(たかみむすび)尊の御神霊が宿るとされている。

【比丘尼岩 遠景】 Photograph 2016.5.28

【明釣神社】 Photograph 2016.5.28

「比丘尼岩」の山側は大きなV字の割れ目を形成している。その隙間から「明石小山」と呼ばれる島が見え、冬至になるとその方向に夕日が沈むという。私が計ったところ、割れ目の方向は255度で、割れ目の大きさを考慮すると、冬至の日の入りの太陽が入りそうである。そして、「明石小山」と「比丘尼岩」は、260度の方向に1.4キロメートル離れており、その中間点に「恵比寿神社」が鎮座している(北緯34度24分29.46秒、東経133度30分50.70秒)。意図を感じる配置である。
その「明石小山」は、頂上に丸石が配された小島で、昔その上部が光っていたという伝承もあり、海に浮かぶイワクラである(北緯34度24分25.16秒、東経133度30分18.63秒)。
【比丘尼岩】 Photograph 2016.5.28

【比丘尼岩の割れ目】 Photograph 2016.5.28

【明石小山】 Photograph 2016.5.28

【恵比寿神社】 Photograph 2016.5.28

■日計石の発見
この「比丘尼岩」を降りる途中で、早くも大きな発見があった。不思議な形をした石組を見つけたのである。石と石の間に奇怪な形をした突起物があり、そこに上部の菱形の隙間から光が差し込んでいる。
日時計ではないのか!!

みんなが色めき立ち、学会員は各々のスタイルで調べだした。どうも周りの石面が2至2分を示しているようである。イワクラ学会として、この石組を「日計(ひばかり)石」と名付けた(北緯34度24分31.79秒、東経133度31分11.99秒)。

この日は、後のスケジュールもあるので、これ以上の調査をあきらめ山を降りた。ところが、その夜、岡本静雄氏は、午前3時に起きだして、この「日計石」に朝日がどのように入るかを観察しに行かれた。
そして、観察に邪魔となる「日計石」の周りの小枝を伐採して帰ってきたのである。
なんとも、イワクラ学会らしいエピソードである。私たちは次の日に、再び、この「日計石」を訪れ、樹木から切り離されてあらわになった石組みの各面が、夏至、春分・秋分、冬至の方向を指していることを確認した。そして、中心部分にある突起物と太陽の関係については、定点観測を行なう必要があるので、天野氏にお願いした。
【日計石 南西から撮影】 Photograph 2016.5.28

【日計石 北西から撮影】 Photograph 2016.5.28

 【日計石 北東から撮影】 Photograph 2016.5.28

【日計石 中心部の不思議な突起】 Photograph 2016.5.28

【日計石 上部の菱形穴】 Photograph 2016.5.28

【日計石 上部 方位図】 Photograph 2016.5.28

■白石島八十八ケ所写し霊場

「比丘尼岩」の後、港の周りのイワクラと思われる霊場を巡った。この白石島には、四国八十八ケ所の写し霊場がある。天野氏の説明によると、各々の写し霊場を島の各家が守っているということである。この港の周りには多くの霊場が造られている。これらの大部分は、変わった形状の岩石を利用した霊場であり、そのいくつかはイワクラを利用したものではないかと考えられる。
【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

【海岸の祠】 Photograph 2016.5.28

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

【白石島 八十八ヶ所霊場】 Photograph 2016.5.28

■沖の白石
この辺りの岩石は、滑らかな曲線で連なった穴が大きく開いており、異様な形をしている。風化にしては曲率がきつすぎるし、波の侵食にしては、海岸線よりも25メートルも高い位置にあり、縄文海進を考慮しても高すぎる。これは、前述したように、タフォニという現象で説明できるようである。
この奇怪な岩々を時間が許すがきり見学した。

この見学の途中、岡本静雄氏が、船から面白い島が見えたということで、大石寿郎氏と供に、防波堤から沖の島を観察すると、ごつごつした岩の上に櫓が組んであり、実に不思議である。
地元の漁師に聞くと、昔は灯台(1938年設置)があったが、船舶がぶつかって壊れたため、今は櫓を組んで灯台の替わりをしているとのことであった。後で天野氏に聞くと、この島が700メートル沖に浮かぶ「沖の白石」であるとのこと(北緯34度24分58.96秒、東経133度30分50.61秒)。懇親会で天野氏から島の写真を見せてもらうと、巨大な岩が積みあがった島で、巨石の一つにはハート型の中に漢詩が刻まれている(1818年に刻まれたが、今ははっきり見えない)。この島もまた航海のシーマークとしてのイワクラであろう。

【沖の白石】 Photograph 2016.5.28

この後、お多福旅館で懇親会が開かれ、ツアー一行は、海の幸に舌鼓を打った。次の日に雨が降らないことを祈って、就寝したのだが、残念ながら朝から雨であった。
もちろん、雨だろうが嵐だろうがイワクラ学会のツアーは決行される。雨支度を済ませて、旅館の裏から山に登った。

■波止岩
「小波止(はと)岩」を通過して、いっきに400メートルほどの距離を登って、「波止(はと)岩」に到達した(北緯34度24分15.77秒、東経133度30分49.17秒)。標高64メートルの尾根の途中に突き出た見晴らしの良い巨石である。「波止」とは、海に突きだした構造物、つまり「なみどめ」のことであり、縄文海進で海面が今より高く、海が島の奥深くに入り込んでいた時代に、波よけの意味を込めて付けられた名前なのかもしれない。
この巨石には、岩上に登れるように足かがりの穴が穿ってある。岩の上面に登ると、多数の盃状穴が造られていた。
盃状穴は、石を少しずつ削って窪みを作ったもので、再生や不滅の信仰として世界中で見られる。日本では縄文時代からイワクラに彫られていたものが、古墳時代に棺に彫られるようになり、昭和初期まで神社の手水石や灯篭等に彫る事が続いていた。子孫繁栄や死者蘇生を願ったものと考えられている。
古代人は、この岩の上で、どのような祈りを込めて、この穴を彫ったのだろうか。しばらく、目の前に広がる景色を見ながら古代に思いを馳せた。
また、この「波止岩」の南側に小さな2つの石が置いてあるが、この配置が家島諸島の西島にある「コウナイの石」に似ている。このようにイワクラを探索していると、そこに規則性や類似性が見て取れる。

【波止岩】 Photograph 2016.5.29

【波止岩の盃状穴】 Photograph 2016.5.29

その「波止岩」から30メートルの位置に、台座の上に乗った亀の形をした石があった(北緯34度24分14.96秒、東経133度30分48.48秒)。この亀石の向きは85度(東)で、山の上から朝の太陽を見つめていた。
【尾根の亀石】 Photograph 2016.5.29

この後、尾根を200メートル歩いて、標高96メートルの中峰の休憩所に着く(北緯34度24分09.75秒、東経133度30分42.22秒)。この休憩所の周りの岩も意味ありげである。祭壇のような石組み、浅い窪みが彫られた石など、見所が数多くあった。

【中峰の休憩所の祭壇石】 Photograph 2016.5.29

【中峰の休憩所の石】 Photograph 2016.5.29

少し休憩したあと、250メートル先の「魚見台」へ向かった。天野氏によると、このような山道が整備されているのは、この「魚見台」に登るためだそうだ。魚群探知機が漁船に搭載されるまでは、この魚見台から海の魚群を見て、手旗で漁船に知らせていたそうである。「魚見台」は標高150メートルの高山(応神山)の頂上部にあり海が見渡せる(北緯34度24分07.89秒、東経133度30分32.97秒)。そして、その場所は、岩が海岸から積みあがり、盃状穴もあることから、イワクラと考えられる。
【魚見台】 Photograph 2016.5.29

【魚見台】 Photograph 2016.5.29

【魚見台の盃状穴】 Photograph 2016.5.29

■赤不動のイワクラ
次に「大玉石」に向うが、その前にルートを外れて、「赤不動のイワクラ」に立ち寄ることにした。
「魚見台」から尾根道を200メートルほど歩くとアプライトおよびペグマタイトの岩脈が露出している場所に着いた。ここから西の谷に向って35メートルの高さを下る。距離的には100メートル程ではあるが、道はなく天野氏の案内がなければ見つからなかったであろう(北緯34度24分02.06秒、東経133度30分33.56秒)。

「赤不動のイワクラ」は、高さ8メートル以上もある立石に十字の割れ目があり、その右下の部分がずれて隙間が空いている。隙間の中に人が入ることができ、その隙間は上の岩石が屋根となり、雨風を防げる場所となっている。ペグマタイトの岩脈もあり水晶が採れたようである。古代人にとって特別な場所だったと考えられる。
上の岩石とずれた岩石の間に赤不動が祀られている。不思議なことに隙間の奥から参拝する形になっている。
この巨石の前は西に開けた海が見下ろせる。岩の中から見る夕日は非常に美しいことであろう。
【赤不動のイワクラの上部】 Photograph 2016.5.29

【赤不動のイワクラ】 Photograph 2016.5.29

【赤不動のイワクラ 隙間の中から】 Photograph 2016.5.29

この場所で、イワクラ学会は、またまた新発見をした。岩に巨大な窪みが彫られていたのである。何度もここに来ている天野氏も気がつかなかったそうである。直径約15センチメートルの真円であり、人が造ったものである。
同じようなものを岡山県牛窓の八間岩で見たことがあるが、それよりも形状の精度が高い。あまりに整っているので、近年あけられた可能性も疑ってしまうほどである。巨大な盃状穴であろうか、目的は不明である。
イワクラの前の石にもきれいな盃状穴が3つ彫られていた。昔の人が岩石に対して何か働きかけようとした、そのような意志がひしひしと伝わってきた。
古代人がこの立石を割って岩をずらした可能性もあるのではないだろうか。
【赤不動のイワクラ 大きな盃状穴】 Photograph 2016.5.29
【赤不動のイワクラの前の盃状穴】 Photograph 2016.5.29
■大玉岩
尾根道に戻って大玉岩に向った。100メートル程歩くと、大玉岩が現れた(北緯34度24分01.51秒、東経133度30分41.06秒)。「王玉岩」とも呼ばれるこの大玉岩は、島の各所からよく見えることから、自分の位置を確認するためのランドマークとしてのイワクラであったと考えられる。この岩の上にも登ることができ、絶景が楽しめる。
11年前のイワクラ学会ツアーの報告(会報3号)では、この大玉岩が笠岡の青佐山を向いているのではないかと指摘している。今回は、雨模様の天気であったためこの青佐山は私達の目に入らなかったが、青佐山はきれいな三角形をした目立つ山であるので、この関係には意味があるのかもしれない。
【大玉岩】 Photograph 2016.5.29

大玉岩から150メートル歩くと「なべかろう」の下に出た。漢字で書くと「鍋下爐」であり、この岩の上で神に捧げる鳥獣を兵士達が食する祭事が行なわれていたとのことである。
さらに150メートル歩いて分岐点を南に少し行くと、四角い石の上に三角の石を重ねた小ぶりなイワクラがある。笠越という場所に立つ鴨別(かもわけ)命の鎮懐石(ちんかいせき)である(北緯34度23分53.64秒、東経133度30分46.44秒)。鴨別命は、『日本書紀』では御友別(みともわけ)の弟、『日本三代実録』では、吉備武彦(きびのたけひこ)命の三男とされており、波区芸県(今の笠岡)を支配した笠臣の祖であることから名付けられたのであろう。一方、鎮懐石は、神功皇后が出産を抑えるのに用いた石の名前であるが、なぜこの名前で呼ばれているのかは不明である。
【なべかろう】 Photograph 2016.5.29

【鴨別命の鎮懐石】 Photograph 2016.5.29

ここから南には、立石山が見える。立石山には立磐神社と御神体の立岩があったが、明治時代に石工に打ち落とされたそうだ。巨大な男根石であったようだが残念なことである。その石工は神罰を受けて亡くなったという。
さらに、この立石山の向こうに平田のイワクラが見える。
■鬼ケ城と鎧岩
雨がまた降りだしてきた、今回は、立石山には向わずに、250メートル先の鬼ケ城に向った。
11年前に、渡辺豊和氏と柳原輝明氏がピラミッドではないかと指摘した山である。
山の形が自然に形成されとは思えないということである。
南から見ると、頂上部に岩石が無造作に集積された様子であるが、近づくと一つ一つの岩が特徴のある形をしていて面白い。
【鬼ケ城の頂上部 南面】 Photograph 2016.5.29

【鬼ケ城の頂上部】 Photograph 2016.5.29

雨が激しくなってきたが、ここでやっとお昼弁当を食べた。山の頂上で傘をさしながらの昼食は、私も初めての体験であった。
雨のため、頂上での調査は、そこそこにして、北側へまわった。
そこには、天然記念物の「鎧岩」がある(北緯34度23分59.88秒、東経133度30分54.02秒)。
「鎧岩」は、アプライトおよびペグマタイトの岩脈が頂上の岩面を覆っているもので、鎧の直垂に似ていることから「鎧岩」と呼ばれている。
アプライトおよびペグマタイトの岩脈が急な斜面と平行に存在し、その外側だけ割れて落ちて、このように残ったというのであるが、そのようなことが自然に起るのであろうか。うまくそのような岩脈があったとしても、その外側を人が剥がし落としたと考える方が考えやすい。
もちろん、自然に起りにくいので天然記念物なのだが、これは、自ら苦しい説明だと認めているようなものである。
また渡辺豊和氏は、恐るべき技術で接着された葺石ではないか(会報2号)と推論されているが、ローマ時代には現在よりも強固なコンクリート製の建物が建てられ、古代エジプト時代にはモルタルが存在していたことから、日本の縄文時代にセメントがあったとしても何ら不思議ではない。ピラミッド山を白い化粧タイルが覆い太陽に照らされて光っていたのではないだろうか。
【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29

鬼ケ城の北側は、南側と全く異なっていて急斜面である。下山する道では、まるで空中を歩いているような気分になった。
【鬼ケ城  北東面】 Photograph 2016.5.29

中腹まで下ると岩窟に着いた(北緯34度24分01.27秒、東経133度30分53.74秒)。天野氏によると、この岩窟は明治時代には、這いながら山の裏側へ抜けられたという、この山の裏側までの距離は少なくとも100メートル以上はあり、なんとも信じられない話である。ピラミッドの機能に関係があったのだろうか。
また、岩窟の入り口には、神明大権現の鳥居が作られていて、戦後の頃までは老婆がここに籠り、産後に乳が出ない人に対して乳揉みを行なっていたそうである。
【神明大権現の岩窟】 Photograph 2016.5.29

さらに下ると飛竜神社に着いた(北緯34度24分02.10秒、東経133度30分53.22秒)。この神社の前の岩には、獣か鳥の顔が線刻されているようだ。
【飛竜神社の線刻】 Photograph 2016.5.29

■真名井と磐鏡
次に開龍寺へ向った。
「真名井」と名付けられた場所は、巨石の下の空間からきれいな水が湧きだしている(北緯34度24分10.12秒、東経133度30分47.51秒)。この島に豊富な真水があり、古代から数多くの住人を抱えることができる島であったことがわかる。また、この巨石の底面には女陰の形になっているようだ。
【真名井】 Photograph 2016.5.29

この「真名井」の水は、「磐鏡」を御神体とする磐鏡神社に献上されたと伝わるが、磐鏡神社は今はなく、その「磐鏡」が何処にあるのか不明となっていた。
手かがりは1943年に撮影された写真のみで、島の人も探していたが見つけられなかった。1943年の写真の「磐鏡」は光を反射しており、鏡石であることがわかる。
それが11年前の2005年2月に行なわれたイワクラ学会の白石島ツアーで、60年ぶりに発見されたのである。イワクラ学会の面目躍如といったところである。
その「磐鏡」は、真っ平らな面を持つ、まさに鏡石である(北緯34度24分10.13秒、東経133度30分48.67秒)。
【1943年に撮影された磐鏡】 Photograph 2016.5.29

【磐鏡】 Photograph 2016.5.29

■開龍寺の奥の院
「開龍寺の奥の院」は、806年に空海が唐から帰国するときに白石島に立ち寄り、巨岩の下で37日間の修行を行った場所と伝えられている(北緯34度24分09.91秒、東経133度30分46.24秒)。
 『小田郡誌』(昭和16年 小田郡教育委員会)には、以下のように書かれている。

「神島外村白石島にあり。僧空海求法の為入唐し、眞言密教の蘊奥を極め大同元年帰朝の際舟掛りせしに、此島の山水明媚にして幽邃閑雅なるは、密数の弘通に相應の霊地なりとし、三七日の間巨厳の下にて、大満虚空蔵菩薩の法を修め、自性清浄の大曼荼羅と、自然に荘厳せる不二の霊地なりとて、興教済生の記念の為、自己の像を彫刻し、四方上下を結界して安置す。後源平合戦の時、平氏の残黨當島に逃れ来りしを、源氏の兵追躡し来り、火を放ちて焼き殺せり。依りて其追福の為空海の靈跡に一宇を建立し、弘法山慈眩寺と命名せり。これ當寺の濫觴なり。後寛永二年領主福山城主水野美作守勝慶當島を巡見の途次参詣せしに、光明赫灼として眼を射れり。勝慶歓喜して堂宇を再建して祈願所となし、空海自作の像は秘佛とし、別に祕鍵大師像を安置して開帳佛とす。
盖し祕鍵大師は、嵯峨天皇の勅を受けて厄病を退散せし像なるを以てなり。かくて教海山開龍寺と改稱す。寛保三年神島四國八十八ヶ所を開くや、當寺を以て其の奥の院となし以て今日に至る。眞言宗に属し笠岡遍照寺の末寺たり。」

もともとは、岩屋であったところに、慈眩寺、開龍寺と変遷してきた。現在の建物は、岩にピッタリと収まっているが、この変遷の中で、建物の背後の岩がどのように削られてきたかは、良くわからない。
建物の奥まったところには、水が湧き出しているが、窮屈な思いをしないと汲めない。やはり、ここの建物を取り外した状態が本来の正しい姿であると思われる。そうなると原初の状態はどのようなものだったのか、堂宇を建てるときに、大きく岩石に手を加えていないと仮定すると、巨大な岩が水平に突き出た岩屋があったことになり、自然に形成したとは考えにくい。古代人がこの聖地に岩屋を造っていた可能性も考えられる。
また、この岩屋の開口部が向いている方向には巨大なイワクラが見えるので、そのイワクラの遥拝所だったのではないだろうか、そして、空海は、その異様な光景に惹かれたのではないだろうか。
【開龍寺の奥の院】 Photograph 2016.5.29

【開龍寺の奥の院 東側】 Photograph 2016.5.29

【開龍寺の奥の院 西側】 Photograph 2016.5.29

直ぐ隣に、岩盤に人頭大の窪みがあり、頭を入れて祈願すると願いが叶うという「不動岩」があるが、これは赤不動のイワクラで見つけた巨大な盃状穴と同じものかもしれない(北緯34度24分10.37秒、東経133度30分47.18秒)。また、市郎兵衛の力石もあるが、とても人が持ち上げることのできる大きさではなく不思議な伝承である。高島の大女伝説と同じように岩石を動かす技術を持った一族がいたことを意味しているのかもしれない。
【不動岩】 Photograph 2016.5.29

このあと、開龍寺の境内にあるイワクラと思われる場所を巡った。
「筆不動」は、お不動様の梵字が書かれており、目を閉じて字の上をなぞると勉強や書道が上達するといわれている岩石である。(北緯34度24分14.18秒、東経133度30分50.10秒)、タフォニ現象による窪みが、不動明王の梵字名「カーン」に似ていることから作られた逸話であろう。
【筆不動】 Photograph 2016.5.29

「荒神社」は、大きな岩の前に置かれた小さな祠で、もともとは、背後の大岩を拝する場所であったと考えられる(北緯34度24分14.45秒、東経133度30分51.44秒)。
【荒神社】 Photograph 2016.5.29

「永護神社」は、源平合戦の戦死者を祀る神社であるが、雨の日には、この岩に武士の姿が浮かぶと伝わる(北緯34度24分14.18秒、東経133度30分51.89秒)。
【永護神社】 Photograph 2016.5.29

開龍寺の参道には、鳥居が立っている。開龍寺は、神仏習合が未だ残っている場所で、境内には、荒神社や永護神社だけでなく、四社明神社という大きな神社も鎮座している。この鳥居の横に、平たい石が置いてあるが、船を模った船石ではないだろうか、気になる石である(北緯34度24分13.53秒、東経133度30分52.33秒)。
【船石】 Photograph 2016.5.29

この開龍寺の参道は、奥の院の岩屋に至る。その岩屋の周りには、泉や鏡石があり、島を見渡せる中峰の展望台までわずか100メートルの距離である。
夏至の日の出が差し込むこの谷奥は、白石島において重要な祭祀場であったと考えられる。

私達一行は、帰りの船に乗るために港に向った。
非常にお世話になった天野氏に別れを告げて、船に乗り込んだ。
あいにくの雨ではあったが、非常に数多くのイワクラを見ることができ、古代のエッセンスが凝縮していたツアーであった。


■おわりに
白石島の島民は、イワクラに石仏を置いて自分の家の守り仏とした。
これには、空海が開いた開龍寺の影響が大きいだろう。しかし、島民がイワクラに興味を持ち、岩に思いを寄せていることのあらわれでもある。
またそれは、古代のこの島にイワクラを造った石工集団がいた証拠ではないだろうか。
白石島には、石切り場もあり、今でも採石が行なわれている。採れる花崗岩は、ほんのりピンクがかった白色の岩石で「白石島みかげ」として有名である。
この島の石工の人達は、古代にイワクラを造っていた石工集団の技術を受け継いだ末裔なのかもしれない。  (了)


■謝辞
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった薮田徳蔵氏、中村美智恵氏、山口伸治氏、天野正氏に感謝いたします。

■参考文献
1薮田徳蔵:イワクラ(磐座)学会会報、「高島の磐座」(2004)、2号、6-10
2.柳原輝明:イワクラ(磐座)学会会報、「高島・白石島探訪記」(2004)、2号、11-14
3.渡辺豊和:イワクラ(磐座)学会会報、「巨石が語る常世への入口」(2004)、2号、15-17
4.高橋政和:イワクラ(磐座)学会会報、「高島白石島ツアー報告」(2005)、3号、7-23
5.河田善治郎、薮田徳蔵:高島子妊石伝説、高島観光協会(2002)
 

2016年8月28日  「高島・白石島のイワクラ」  平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報37号 2016年8月1日発行 掲載