尖山ピラミッド

 Report 2012.9.7 平津 豊 Hiratsu Yutaka
Share (facebook) トップ画面へ

本レポート(論文)のリンクおよびシェアは自由ですが、画像や文章を抜き出しての引用はご遠慮ください。
富山駅前のホテルを出発し、西に5キロメートルほど35号線を走ると、城山が見えてくる35号線を走ると皇祖皇太神宮入口という案内看板があったので、その道を通って山の麓に着く。
犬を散歩させている人に聞くと、この上に無人の神社があるという。車を置いて、山道を登ると直ぐに鳥居が見えてきた。
この神社は、御皇城山(オミジンヤマ)皇祖皇太神宮(コウソコウタイジングウ)といい、竹内文書を教典とする天津教の聖地である。現在は、皇祖皇太神宮本庁として茨城県北茨城市磯原町で活動しているが、大昔は、この地に皇祖皇太神宮があったという。

【皇祖皇太神宮のある御皇城山】Photograph 2012.8.12 
私のレポートには、何度も顔を出す竹内文書であるが、簡単な説明をしておく。
武内宿禰(タケウチノスクネ)の子孫とされる竹内家の竹内巨麿(タケウチキョマロ)が、1928年に存在を公開した文書が竹内文書で、神代文字で記された文書と、その文書を武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥(ヘグリノマトリ)が漢字カタカナ交じり文に訳したとする写本、さらに文字を刻んだ石や、ヒヒイロカネでできた鏡や剣、天皇の骨で造った像などをいう。
天津教は、1935年から1942年にわたって、特高警察により不敬罪で投獄などの弾圧を受ける。1944年に証拠不十分で無罪となるが、その裁判で提出された竹内文書約4000点が太平洋戦争の空襲により焼失した。戦後は、GHQから天津教は解散指定される。
その竹内文書には、奇怪な話が満載である。神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代があり、さらにその前に天神7代があったという。今から数十万年前の超古代の日本は世界の政治文化の中心地であり、御皇城山(オミジンヤマ)が高天原であった。世界には五色人(イツイロヒト)・黄人(アジア人)・赤人(ネイティブアメリカンやユダヤ人)・青人(現在、純血種はいない)・黒人(アフリカ人やインド人)、白人(ヨーロッパ人)が存在していた。天皇は、天空を超高速で駆ける天浮之船(アメノウキフネ)に乗って世界を巡行した。キリストやモーゼや釈迦など世界の大宗教教祖はすべて来日し天皇に仕えた。キリストは十字架上で死なずに日本で死んだ(ゴルゴダで処刑されたのは弟のイスキリ)。不合朝69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した(これがムーとアトランティスか?)。朱に輝き錆びない金属ヒヒイロカネが存在する(アトランティスのオリハルコンか?)。吉備常根本国に大綱手彦天皇(オツナテヒコスメラミコ)の霊廟である日来神宮を造ったと書かれ、この日来神宮がヒラミットと読む。
などなど、驚愕な話であるが、地球上の全人類が日本の天皇の下に統治されていたという歴史であり、地球は一つであり人類も一つであるという国家間戦争を否定する思想で貫かれていることも確かである。
【皇祖皇太神宮の鳥居】Photograph 2012.8.12 
皇祖皇太神宮は、小さな社ではあるが、掃除も行き届いており、信仰を集めていることがわかる。8月には、茨城県の皇祖皇太神宮本庁から館長が来られて大祭を行うというこどてある。また現在の正式な宗教名は「天神人祖一神宮(テンジンジソイチシセングウ」である。

参拝の仕方は、四度拝八平手一度拝、組手は剣の形に組むように書いてある。
一般の神社では、二拝二拍手一拝であるが、四段拝八開手は日本古来の拝礼作法であり、伊勢神宮では神職が行っている。ちなみに、出雲大社や宇佐神宮では、二拝四拍手一拝が行われている。
御祭神は、天地身一大神(アメツチマヒトツノオオカミ)(天地開闢の大根元 亦名 元無極體主王大御神(モトフミクライミヌシオオカミ))、天国竈大神(テンゴクカマドノオオカミ)、皇祖皇太神(スメオヤスメラオオタマシイオオカミ)、別祖大神(トコオヤオオタマシイオオカミ)、神国御廟命大神(シンコクミタマミコトノオオカミ)、神明三十日明大神(カミアカリミソヒマモリオオカミ)、日月人風光主大神(ヒツキホオヒノオオカミ)である。
【皇祖皇太神宮の御本殿】Photograph 2012.8.12 
【皇祖皇太神宮の御祭神】Photograph 2012.8.12 
御由緒には、以下のように書かれている。
『八幡山皇祖皇太神宮のいわれ
古文献によりますとこの御皇城山は天神七代を経て天孫降臨の御神勅により皇統第一代「天日豊本葦牙気身光大神天皇」が人類世界の統治者として神定され天降られた地とされております。この場所は"神明"とされておりまして神宮の建立されたのがこの地区であります。その神宮の神殿は上古五代天皇のときの記録では七百二十一尺、奥行き六百六十一尺(時代により千二百六十一尺という記録もある)という広大なもので屋根はヒヒイロガネでふいた参殿づくりであったと記されております。お宮は二十年ごとに換え地に交互に建てられました。その一方がこの八幡山ですが、天皇自身祭主される大祭には全世界から五色人がつどい八ヒラデ四拝礼をし、盛大なお祭りがおこなわれました。
祭礼は、深湯祭(クガタチ)、鎮火祭(ヒワタリ)、鳴動祭(カマナリ)など術祭をおこない上下万民の安泰を祈念しましたが、世界の聖者たちもこの神宮で修行し一派を開き、その系統が現在までつづいております。
神宮は創立以後幾多の天変地変、土地の隆起陥没により神域は変形しましたが、ホド宮としての八幡山(ミド宮は久郷の地)皇祖皇太神宮はこのように由緒ある場所であります。総本庁 皇祖皇太神宮』


念願の参拝を済ませて、山を降りると下に石が敷き詰められた建物跡のような場所がある。立て看板もないのでよく分からないが、敷き詰められた石は丸石でしかも色々な種類の石である。何か模様の彫られた石まである。ひよっとしたら皇祖皇太神宮の建屋跡であろうか、その昔、皇祖皇太神宮の建屋が沢山建てられ、建屋の屋根がヒヒイロカネで金色に輝いていたので、このあたりに金屋という地名が残っているともいう。
【皇祖皇太神宮からみる不思議な空き地】Photograph 2012.8.12 
さて、次に本日の主目的である尖山に向う。
上述した竹内文書は、非常に数多くの古文書群から構成されているのであるが、富山県立図書館に蔵書されている「神代の万国史」には、トンガリ山は上古第24代天仁仁杵身光天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿(アメトツチヒラミツト)のアトであるとされ、天皇はそこから天の浮舟(アメノウキフネ)に乗って、全世界を飛行したとされているそうである。UFOの目撃多発地でもある。
6号線を22キロメートルほど走ると、尖山が見えてきた、急勾配の山が他の山とは切り離されて存在していて、異様な風景である。
【ピラミッドといわれる尖山】Photograph 2012.8.12 
ドライブイン立山アルぺン村で登山の身支度をして、登山口に向う、アルぺン村からさらに6号線を南東に800メートルほど行くと左手に尖山登山道の看板があり、その細い道を入って300メートルほど行くと通行止めの看板に突き当たった。近くの家の人に聞くと、この先は通行止めなので、アルぺン村の手前の道を入るようにとのことであった。また、この人は「トンガリヤマ」と呼んでいた。
立山アルぺン村まで戻って、教えられた道を800メートルほど行くと広い台地に出た。道は十字路になっている。これが平林という地区で、UFOの飛行場ではないかといわれているところである。登山道が分からないので、畑作業をされている人に尋ねると、丁寧に教えていただいた。
先ほどの十字路を南に平林を南に突っ切ったところから南東方向に登山口に通じる道があるらしい。ちなみにこの平坦な道は700メートル以上も続いていた。その分岐点でちょうど、尖山から降りてこられた人の車に会い、駐車場の様子などを詳しく聞いた。
600メートルほど山道を登ると砂防ダムの上に車を駐車できるスペースがあった。ここが登山口である。駐車場が334メートルなので頂上の559メートルまではあと、225メートルほどの山登りである。ハイキングコースとされている山なので、下山する家族連れや老人夫婦とすれ違った。厳しい登山ではないようだ。
登山口からは東方向に登っていく。尖山から見ると西面を登っていくことになる。
登っていると、他の山とは異なることに気がついた、それは地質である。ところどころ見える山肌や道を見ると土の中に人頭大の石が混ざっているのである。大きな石の隙間に土があるのはわかるし、土ばかりというのもわかるのだが、土の間に小さな石が混じっているような地質は珍しいのではないだろうか、尖山が人工の山であるというのも納得できる。
道の勾配が険しくなったところから空が開けてきた。丸太階段が現れたら頂上に直ぐに着いた。登山口から1時間ほどであった。
尖山は周りの山とは独立しているので360度見渡せるすばらしい景色である。
【UFOの滑走路ともいわれている天林】Photograph 2012.8.12 
【天林の上にも平坦な場所がある】Photograph 2012.8.12 
【石と土が混ざった地質】Photograph 2012.8.12 
【尖山頂上からの眺め】Photograph 2012.8.12 
日本にピラミッドがあると提唱したのは酒井勝軍(サカイカツトキ)であるが、彼もまた竹内文書の研究者であった。彼はピラミッドの具備すべき条件の一つとして頂上に太陽石があり、その周りに石が並べられていることとしている。
さて、尖山の頂上のストーンサークルであるが、少し大きな中心の石を中心にして直径8メートルほどの円内に小さな石が沢山配置されている。意図を持って配置されたことは間違いないが、酒井勝軍のいうように整然とした配列には見えない。風化または人的な破壊ということもあるのかもしれない。
この尖山のストーンサークルには、磁気異常があることでも有名である。コンパスで調べてみると数箇所で小さな磁気異常があったが、最もすごいのは、南東の方向にある二つの石の間である。コンパスを上から地面に近づけていくと北を向いていた針が30度左に回転してしまった。こんな大きな磁気異常にあったのは始めてである。
磁気異常は地震などによる地盤のずれにより起こるといわれており、魚などの回遊を狂わすなど生物にも影響を与るものであるが、この尖山の局地的で強い磁気異常はなぜ発生しているのであろうか、一説では周辺に他の山のないところなので雷が頻繁に落ちて磁気が狂っているというのだが、果たしてそうであろうか。
尖山が天の浮舟の発着場であり、尖山がその乗り物にエネルギーを与える施設であった場合、その施設の一部が稼動していて磁気異常が起こっていると考えると非常におもしろい。
私がこのようなことをしていると、週4回この尖山に登っているという地元の人に声をかけられ、富山大学が同じ場所で磁気異常を調べていたり、時々白装束の集団が登ってきて祈っているとか、いろいろ話を聞くことができた。
その人から北面に15メートルに渡って凄い石組があるという話を聞いた。またそこへ下山する道もあるという。

【尖山頂上のストーンサークル(北から撮影)】Photograph 2012.8.12 
【尖山頂上のストーンサークル(東から撮影)】Photograph 2012.8.12 
【尖山頂上のストーンサークル(南から撮影)】Photograph 2012.8.12 
【尖山頂上のストーンサークル(西から撮影)】Photograph 2012.8.12 
【尖山頂上の磁気異常のある場所】Photograph 2012.8.12 
【太陽石の様式】太古に本のピラミッド(酒井勝軍)より
頂上で軽い食事をした後、この人に教えてもらった道から下山することにした。頂上から少し下りたところに夏椿峠と書いたいた小さな看板があった。教えてもらった分岐点はここだが、壊れた柵があり、その先は急斜面である。様子をみながら下りてみると木に結ばれたロープがある。このロープをつかみながら両足を踏ん張って後ろ向きに下りて行く。ロープが無くなったら次のロープがまた木に結ばれている。確かにこのロープがないと下りれそうにない。十数本のロープを次々と渡って下ていくと、やっと比較的穏やかな斜面になった。この間、小さな石組が並んでいるような場所もあったが、凄いという感じではない。下りるのに手一杯で、見過ごしたのかもしれないと思いつつ、すこし歩くと道は突き当たり、左右の立て看板があった。右の道は草が生い茂っていて道のようなものは無くなっていたので、左の平林方面へ向うことにした。これは西方向に向う道であり、登山道につながると考えたからである。さきほど急斜面を一気に下りたのですぐに登山道に出るものと考えていた。しかし、30分歩いても登山道に出ない。さらに道は、草が生い茂って獣道のようになっていった。方向感覚もなぜかおかしく、どこをどれだけ歩いたのか分からなくなっていた。方位磁石も頂上での磁気異常を経験しているだけに信じきることもできない。このままでは遭難すると判断し、引き返すことにした。体力の無くなったなか、あの急斜面を登ることができるのかという不安があったが、なんとか腕の力でロープをつたって分岐点に戻ることができた。いやはや、いつも人の行かない所に行っているのだが、今回は、一瞬ダメかと思った。
結局、尖山には2度登ったことになり、しかも2回目は最も過酷な登山ルートを登ったことになる。駐車場の車に戻ったのは、登山開始から4時間後であった。
【尖山頂上から夏椿峠に下山する急勾配の道】Photograph 2012.8.12 
【敷き詰められた石】Photograph 2012.8.12 
麓の蔵王神社に立ち寄る予定であったが、このアクシデントにすっかり忘れてしまっていた。
後日、尖山をレポートしている布施泰和氏の記事を見つけて、気がついたのだが、おそらくあの夏椿峠の分岐点を右へ(東方向へ)行くと尖山の北面に至ったのではないかということである。布施氏のレポートによるとしらみ坂といわれるところには、巨石が人工的に積み重ねられたかのように幅15メートル奥行き30メートルの斜面を覆っているらしい。頂上で出会った地元の人の話と合致する。さらに、この尖山には、この石組みの近くに円形の舞台のような構造物や南東斜面にはすり鉢状の観覧席のような構造物もあるという。
結局、私たちは、重要な遺跡を見ることができなかったことになる。
この尖山は、登山道は整備されてハイキングとして登山できる一方、登山道から外れると、植林が進んだだめ見通しがほとんどなくなっていること、また遺跡も破壊されていることなどから、詳しいガイドの方がいない限り、これらの遺跡を探すのは大変危険である。
もし、機会があれば、これらの遺跡に再挑戦したいと考えている。
次は、五箇山の天柱石を見に行く。
北陸自動車道を走り、小矢部インターで東海北陸自動車道に乗り換えて、南に20キロメートル行った福光インターで高速を下りて、304号線をさらに20キロメートル走ると左手に天柱石という小さな看板があったので、その道を左折する。天柱石の住所は、富山県南砺市上松尾ということである。真っ直ぐに東に向って車を走らせて上松尾という村に着くが、ここからカーナビ上での道はなくなっている。民家の人に聞くと、もっともっと向こうということだ。さらにしばらく、真っ直ぐと思われる方向に進んでいくと採石場がある。これを過ぎると天柱石という看板がやっと出てきてほっとした。というのも、ここまで分岐点も何箇所かあったのだが案内板らしきものは入り口にあったものだけであり、不安だったからだ。
採石場からは直ぐに行き止まりの駐車場に着く。結局、304号線から左折したところから10分程度車を走らせていたことになる。わかりにくい場所である。
さて、駐車場から少し歩いて天柱石に近づくことになるが、近づくにつれて天柱石がどんどん大きくなって行く、非常に大きな岩が地面に突き刺さったように立っている。高さは32メートル、周囲75メートルと言われている。なんと10階建てのビルに相当する高さである。とても普通のカメラには収まらないので広角レンズに換えて撮影してみたが、この大きさは伝わるであろうか。
この石を見上げていると古代の遺物を見ているような感覚に陥った。
竹内文書では、この天柱石からスメラミコが天と地を行き来していたと伝えてある。そのような伝説にはふさわしい場所である。
また、大きさに圧倒されているのであろうか、それともこの石が放つ波動に押されているのであろうか、早くここを去りたいという思いがあり、周りをあまり調べずに引き返した。
【天柱石】Photograph 2012.8.12 
【天柱石の南側】Photograph 2012.8.12 
【天柱石東側】Photograph 2012.8.12 
【天柱石の西側】Photograph 2012.8.12 
布施泰和氏(白山菊理姫)の「天の王朝」というブログに、1984年当時、この天柱石の頂上で皇祖皇太神宮本庁の館長(竹内巨麿の4男高畠吉邦氏)によって例祭が毎年10月9日に行われていたと報告されている。
そのブログには、天柱石の頂上に刻まれた神代文字の写真がアップされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/diary/200610070000/
皇祖皇太神宮もこの天柱石を聖地としていたのである。
【天柱石の北側】Photograph 2012.8.12 
今回、時間が無くなって、行けなかったのは富山県高岡市の二上山である。
この二上山には、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の墓があるという。この武内宿禰の孫が平群真鳥(ヘグリノマトリ)で、神代文字で記された竹内文書を漢字とカタカナ交じり文に訳した人物である。
この二上山(富山県高岡市二上)と天柱石(富山県南砺市上松尾)と尖山(富山県中新川郡立山町栃津)を結ぶと正三角形になるという話も有名である。Google地図上で距離を測定すると、尖山(A地点)、天柱石(B地点)、二上山(C地点)とするとAB間38.0キロメートル、BC間38.1キロメートル、AC間37.7キロメートルと正確な正三角形である。また、御皇城山の皇祖皇太神宮は、尖山と二上山とのほとんど中間点(2キロメートルのズレ)に位置しているのだ。このように竹内文書にゆかりのある場所が幾何学的な図形を形成しているのが偶然とは考えにくい。意図的に配置されたと考える方が自然である。

より大きな地図で 富山県 を表示


スティーブン・スピルバーグの未知との遭遇という映画を覚えているであろうか、UFO を目撃した主人公ドレイファスが取り付かれたように模型を作り出す、その模型と同じ形の山がテレビに映し出された瞬間、物語はクライマックスに突入していくのだが、その宇宙人とファーストコンタクトを行う舞台が、ワイオミング州のデビルスタワーである。この山が尖山にそっくりなのである。これはなぜだろうか、尖山には、イギリスやイタリアなどの考古学者も調査に訪れているという、スピルバーグは、竹内文書のことを知っていたのであろうか、ただの偶然の一致として片付けてしまうのはあまりにも乱暴すぎないだろうか。

2012年9月7日  「尖山ピラミッド」 レポート 平津豊