当尾の磨崖仏とイワクラ

 Report 2016.5.7 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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 2016年1月31日に、柳原輝明氏の案内で、イワクラ学会の当尾(とおの)の里の石仏を巡るツアーが行なわれた。

当尾地区は、京都府の南端の位置にあり、室町時代以前は小田原と呼ばれていた。山の尾根の間に寺々の塔が見えたことから「塔ノ尾」と呼ばれたのが「当尾(とおの)」の語源と言われている。この当尾の地域は磨崖仏文化財環境保全地区に指定されており、岩石に彫られた石仏を散策するコースが整備されている観光地である。
今回は、浄瑠璃寺と岩船(がんせん)寺の間に点在する石仏を巡った。まず、バスの終点である浄瑠璃寺を訪ねた。
浄瑠璃寺
(北緯34度42分56.96秒、東経135度52分21.04秒)
浄瑠璃寺は1047年創建の真言律宗の寺で、九体阿弥陀如来像や四天王立像などの国宝や重文の仏像が安置されている。梵字の阿の字をかたどった池は修復中で水が抜かれていたため、池中の石組みが良く見えて面白かった。入口の直ぐ左手にイワクラらしき岩石があった。
【浄瑠璃寺のイワクラらしき岩石】Photograph 2016.1.31

神仏習合について
仏教は6世紀に日本に公伝し、蘇我氏の隆盛とともに広がった。仏教の本質は、悟りをひらくことを目的とした個人的なものたったが、日本では、先祖供養、病気平癒、祈雨など現世利益をもたらすものとして受容されていく。
『日本書記』の用命天皇紀には「天皇、仏法を信(う)けたまい、神道を尊びたまう」。つまり天皇は、仏教を受容されて神道も尊重されたと書かれている。
しかし、孝徳天皇になると「天皇仏教を尊び、神道を軽(あなず)りたまう」。つまり天皇は、仏教を尊重され、神道を軽視したと書かれている。
仏教は次第に国民にも広がり、神と仏の関係を説明する必要が生じた。
そして僧侶側から論じられたのが神身離脱説である。神々も輪廻の中で苦しむ存在であり、仏法による救いを求めているとする考え方で、神々を解脱(げだつ)に導く神宮(じんぐう)寺が神社の境内に建てられるようになった。神前読経が唱えられ、一部の神社では、その経営も僧侶が行なうようになった。
神仏習合がさらに進んだ10世紀には、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が生まれる。神は、仏が民衆を救うために現れた仮の姿であると考えるものである。両部神道や山王神道といった仏家神道が盛んになり、例えば天照大神の本地仏は大日如来、八幡神は阿弥陀如来、天手力男命は不動明王、市杵島姫は弁財天、大国主は大黒天とされた。神様を権現(ごんげん)と呼び、仏教が神様を上書きして隠してしまったのである。
神職側も反論を試みたが、復権するのは明治時代まで待たなければならなかった。江戸時代の国学の隆盛を受けて明治政府が神仏判然(しんぶつはんぜん)令を発令すると、権現が廃止され、神社境内の仏塔などの仏教的要素が除去された。過激な廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こったところもあった。これによって神と仏は分離されたのである。
この当尾地区においても、室町・鎌倉時代には仏教が隆盛し、土着に伝わっていた神の依り代である磐座信仰は軽視されたものと考えられる。このときに、僧侶は磐座に仏像を彫り、磐座信仰を仏教で上書きして隠したのではないだろうか。

浄瑠璃寺近くのあ志び乃茶屋で昼食をとってから磨崖仏目指して歩き始めた。

藪の中三尊
(北緯34度43分06.09秒、東経135度52分33.71秒)
向って右に十一面観音菩薩立像、中央に地蔵菩薩立像、左に阿弥陀如来坐像が彫られ、弘長2年(1262年)の銘文が残っており、当尾の石仏の中では最も古いものである。
丁の字形に割れたイワクラの平面に鎌倉時代に仏像を彫ったものと考えられる。
【藪の中三尊】Photograph 2016.1.31

あたご灯籠
江戸時代に自然石を利用して造られたものである。この村では、代表が1年に1度、京都の愛宕神社へ参拝し、村の各家に配るためのお札をもらって帰るという愛宕講があった。この灯篭は、その愛宕信仰の遺物と考えられている。
【あたご灯籠】Photograph 2016.1.31

唐臼(からす)の壷二尊
(北緯34度43分02.74秒、東経135度52分48.59秒)
阿弥陀如来坐像が彫られた右手には、火袋があり灯明を供えることができるようになっている。向かって左の面に地蔵菩薩立像が彫られている。康永2年(1343年)の作である。
仏像が彫られた岩石の下に台座があり、上にも笠のような岩石がある複雑な石組みのイワクラである。
【唐臼の壷二尊】Photograph 2016.1.31

一鍬(ひとくわ)地蔵
(北緯34度43分00.16秒、東経135度52分48.04秒)
見上げるところの大岩が四角にくり抜かれている。地蔵が線刻されているそうだが、風化が進みよくわからなかった。他の磨崖仏と比べて、非常に深く掘り込まれている。縄文時代または古墳時代に別の目的で造られた構造物の可能性もあるのではないだろうか。
【一鍬地蔵】Photograph 2016.1.31

唐臼(からす)の壷
(北緯34度43分02.78秒、東経135度52分49.58秒)
岩石の真ん中に直径15センチメートルの穴が掘られ。唐臼の壷と呼ばれているが、何のためのものなのか、目的がわからない。鎌倉時代に造られたものとされているが、もっと古い時代の可能性もある。このような鋭角な穴を作るには鉄器がないと無理ではないかと考えられるが、福岡県曲り田遺跡から、小さな鉄片(鍛造品)と鉄を研ぐ砥石が出土しており、縄文時代に既に鉄器が存在した形跡がある。したがってイワクラが造られた縄文時代にまで遡れる可能性がある。
また、この周りにある小さな石の配列も気になった。古代の祭祀場だったのではないだろうか。
【唐臼の壷】Photograph 2016.1.31

【唐臼の壷のまわりの岩石】Photograph 2016.1.31

忘れられたイワクラ
(北緯34度43分08.10秒、東経135度52分55.03秒)
柳原氏が見つけられたイワクラである。道の側の小高い丘の頂上部に丸い石が置かれている。祭壇石と思われる石もあることからイワクラではないかと考えられる。
祭壇石から丸い石への方向は10度で、ほぼ北であった。
【忘れられたイワクラ】Photograph 2016.1.31

わらいぼとけ
(北緯34度43分06.55秒、東経135度53分00.65秒)
遠くの道からよく見える磨崖仏である。両脇に、観世音菩薩坐像と勢至菩薩坐像を従えた阿弥陀如来坐像が彫られている。永仁7年(1299年)の作である。
重ね石のように見えるが、岩石が重なっているのではなく一つの岩石でできている。上部に溝のようなものが造られており、なぜこのような溝を造ったのか気になる。磨崖仏は傾いているが、このイワクラに仏像を彫った後、地崩れで岩石全体が傾いたと考えられる。
側に眠り仏と呼ばれる小さな石仏が地面に埋まっているが、これはその地崩れの時に埋まってしまったと考えられる。
【わらいぼとけ 遠景】Photograph 2016.1.31

【わらいぼとけ】Photograph 2016.1.31

【わらいぼとけ 北から撮影】Photograph 2016.1.31

【わらいぼとけ 上部の溝】Photograph 2016.1.31

【眠り仏】Photograph 2016.1.31

弥勒磨崖仏
(北緯34度43分01.90秒、東経135度53分17.56秒)
京都府相楽郡の笠置(かさぎ)寺の弥勒如来磨崖仏を写したものといわれている。文永11年(1274年)の作である。
ぐねっと斜めのイワクラに2.5メートルの弥勒如来が線刻されている。前にある小さな石との対比が美しい。
弥勒の辻と呼ばれる十字路にあることからランドマークの役割をしていたイワクラだったと考えらる。
【弥勒磨崖仏】Photograph 2016.1.31

三体地蔵
(北緯34度43分06.90秒、東経135度53分14.13秒)
大きな岩に三体地蔵が彫られている。三界(欲界、色界、無色界)の万霊を供養する為に彫られたと伝わる。
地蔵が彫られた岩面は230度(南西)を向いている。冬至の日の入りが岩面を照らすイワクラであったと考えられる。
【三体地蔵】Photograph 2016.1.31

道路脇の破壊されたイワクラ
(北緯34度43分08.96秒、東経135度53分02.72秒)
弥勒の辻から岩船寺へ向かう舗装道路の脇に、道路を造るときに破壊した巨石がある。イワクラ学会としては、この岩石に注目した。岩石を割るのに矢穴が用いられていることから江戸時代に破壊されたと考えられるが、隣に亀の頭のような特徴的な岩石が現れていること、この位置が貝吹岩から後で述べる当尾の岩船の間にあたることから、巨大なイワクラであったのではないかと推測した。
【道路脇の破壊されたイワクラ】Photograph 2016.1.31

岩船寺
(北緯34度43分11.73秒、東経135度53分09.43秒)
岩船(がんせん)寺は、天平元年(729年)行基の創建と伝わる。真言律宗の寺で、阿弥陀如来像や四天王立像などの仏像が安置されている。あじさい寺として有名である。
石段の左側に岩石をくりぬいて造った石風呂が置いてある。鎌倉時代に造られたもので僧侶が沐浴に使ったといわれている。
【岩船寺の石風呂】Photograph 2016.1.31

貝吹岩
(北緯34度43分09.27秒、東経135度53分04.91秒)
岩船寺の裏山である御本陣山の西方向に張り出した標高294メートルの場所に貝吹岩がある。この山にあった三十九の坊舎の僧を集めるために法螺貝を吹いた所と伝わっている。
見晴らしがよくランドマークとしてのイワクラであったと考えられる。不思議なことに、このイワクラの表面にはぴったりと南北方向にペグマタイトの白いラインが走っている。
【貝吹岩】Photograph 2016.1.31

【貝吹岩】Photograph 2016.1.31

【貝吹岩の上部】Photograph 2016.1.31

【貝吹岩からの展望】Photograph 2016.1.31

一願不動
(北緯34度43分09.97秒、東経135度53分02.02秒)
高さ1.2メートルの不動明王立像が彫られている。弘安10年(1287年)作である。この不動は、1つだけ願いを叶えてくれるといわれている。
山の上の貝吹岩から巨石が連なって、このイワクラにつながっている。そして、イワクラの下には水が湧いているので、重要な祭祀場であったと考えらる。
【一願不動】Photograph 2016.1.31

【一願不動の上の岩石】Photograph 2016.1.31

当尾の岩船
(北緯34度43分07.96秒、東経135度53分00.50秒)
さて、私が注目したのは、「岩船寺(がんせんじ)」という寺名で、この寺名の「岩船」は、イワクラに良く用いられる名称である。
岩船寺の住職に寺名の由来を尋ねると、「この地域の地名だ」との答えだったので、「近くに船の形をした岩はありませんか」と聞くと、「山門横に岩で作った石風呂があり船の形をしている。また池の中に小さな船形の岩を沈めている。」とのことであった。「この寺ができる以前の、もっと古いものを探しているのですが」と続けて訪ねたが「そのような岩は知らない」との返事であった。ここで、住職がいう岩風呂は、山門の横に置いてある岩をくりぬいた風呂のことで、僧侶が沐浴に使ったとされている。岩船寺に関する説明書やネット上の情報のほとんどは、この岩風呂が岩船寺の名前の由来だと書いているが、私はそうは思わない。岩風呂は船形をしているが、鎌倉時代のもので時代が合わない。岩船寺の創建が奈良時代であるから、鎌倉時代に作られた岩風呂の名前が寺名になるはずがない。一方、ここの土地名は、加茂町岩船であるから、次のように考える方が自然である。
岩船というイワクラがあったので岩船という土地名になった。そこに寺が建てられたので岩船寺と呼んだ。
この説を裏付けるためには、岩船というイワクラが近くにないといけない。岩船寺の住職は知らないということであったが、柳原氏がそれらしい巨石があるということで案内していただいた。

その巨石は、異様な雰囲気を出しており、見るなりイワクラだと直感できるものであった。高さは2メートル以上、長さは5メートル以上で上部は窪んでいる。まさに岩船にふさわしい形状である。イワクラ学会では、この巨石を「当尾の岩船(とおののいわふね)」と呼ぶことにした。
【当尾の岩船 西から撮影】Photograph 2016.1.31

【当尾の岩船 北西から撮影】Photograph 2016.1.31

【当尾の岩船 北から撮影】Photograph 2016.1.31

【当尾の岩船 北東から撮影】Photograph 2016.1.31

【当尾の岩船 東から撮影】Photograph 2016.1.31

【当尾の岩船の上部】Photograph 2016.1.31

不思議なことに、この当尾の岩船には仏像が彫っていないのである。このあたりの特徴的な大きな岩には、ことごとく仏像が彫ってあるのに、これだけ目に付く巨石に僧侶が手を出していないのはなぜであろうか?
この当尾の岩船は、仏像を刻むことができないほど神聖視されていたのではないだろうか。それが、今は忘れ去られてしまい、誰も見向きもしていないのである。
逆に仏像が彫られたイワクラは、今でも磨崖仏として拝まれている。なんと皮肉なことであろうか。


今回のイワクラツアーは、磨崖仏とイワクラとの関係を考える良い機会になった。

                    (了)

2016年5月7日  「当尾の磨崖仏とイワクラ」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報36号 2016年4月1日発行 掲載