唐人駄場及び唐人石巨石群における人造の可能性

 Report 2016.6.04 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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■まえがき
2014年10月26日、イワクラを研究するなら必ず見ておかなければならないと諸先輩方から聞いていた高知県足摺の唐人駄馬(とうじんだば)を訪れて、地元の富田無事男氏に唐人駄場と足摺の巨石群を案内してもらった。
【唐人駄場】Photograph 2014.10.26


唐人駄場をはじめとする足摺の巨石群に最初に注目したのは、イワクラ学会の渡辺豊和会長である。渡辺氏は1991年発行の著書の中で足摺岬のことを取り上げている。

その後、1993年に古田武彦氏が、「足摺に古代大文明があった」という説を発表した。古田氏の著書『古代史をゆるがす・真実への七つの鍵』(原書房、1993年)によると、古田氏らは、1993年10月25日と11月3日、唐人石に銀紙を貼って、1~2キロメートル離れた展望台や海上から観察する実験を行い、太陽光が唐人石に反射することを海上から確認できると報告している。そして、古田氏は、唐人石が縄文灯台ではないかという説を発表した。つまり、縄文時代に太平洋沿岸に造られた巨石遺跡が、沿岸航海の灯台の役割を果たしていたのではないかという説である。この説が、渡辺氏の縄文光通信ネットワークに触発されたものであることは明白であるが、実験を行なった古田氏の行動力には感服する。
1997年には、『足摺岬周辺の巨石遺構-唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書-』が土佐清水市教育委員会から発表されている。教育委員会が巨石遺跡を認めるのは珍しいことであり、あまり前例はない。土佐清水市が足摺の巨石群を観光資源に活用しようとの思いで行なったようであるが、やはり考古学界等のアカデミズムからは攻撃されたようである。

また、この足摺の巨石群では、もう一つの画期的な実験が行なわれている。私の母校でもある姫路工業大学教授の森永速男氏と神戸大学教授の井口博夫氏による古地磁気調査である。古地磁気調査については、森永速男氏が、イワクラ(磐座)学会会報4号に書かれている。

「一般に岩石は生成時の地球磁場方向と平行な残留磁化を獲得する。そのため、同時代に形成され、同じ地方に分布する岩体間に相対的な移動がなければ、それぞれの岩体が持っている残留磁化方向はほぼ同じになる。(中略)
以上のように、巨石群の配列が残存地形であるのか、移動・回転を経てきたものであるのかどうかを、こういった地球磁場や岩石が記録する残留磁化の特徴を利用して調べることができる。一般に、ある地域の巨石群は同種の岩石で同じ時代に形成されたものであるから、巨石ごとの残留磁化方向(古地磁気方向)を測定によって決めれば、巨石間の相対的動きの有無を検証できる。」

調査したほとんどの岩石は移動や回転を伴って現在の位置にあることが判明した。
したがって、自然の節理と風化によって、このような景観が形成されたとするアカデミズムの主張は、科学的な方法によって否定されたのである。
しかし、早まってはいけない。これによって人が岩石を積み上げたことを意味するものでもない。自然な崩壊によって岩石が上から転がり落ちたり、地震で倒れたりして、岩石が移動・回転した場合があるからである。森永氏も前述の論文の中で次のように警告している。「古地磁気学的手法で確実に言える唯一のことは、巨石群が移動・回転しているかどうかであって、それが人工的な作用によるかどうかを述べることはできない。」
とはいえ、森永氏の研究がイワクラ学に大きな前進をもたらしたことは間違いない。

2つの岩石が重なっている状況について、これを、1つの岩石が節理によって2つに割れた後に風化して形成された残留地形であるとするのがアカデミズムの考えである。しかし、中には、節理とは考えにくい重ね石が存在する。その場合、2つの岩石の模様が連続していないことを探して自然節理ではないと証明するしかなかったが、2つの岩石の古地磁気を計測することにより、科学的に証明することができるのである。

これらのことも踏まえて、以下、唐人駄場と足摺の巨石群を紹介しながら、これらの巨石群が人の手によって造られた可能性について考察する。なお、案内していただいた富田無事男氏は、上述した2つの調査にも参加されており、この遺跡に最も詳しい方である。
■唐人駄場
唐人駄場は、標高230メートルにある円形の平地である。直径は180メートルもあり、野球場がすっぽりと入るほどの広さである。また、元の駄場の形はひょうたん形をしていたそうである。

今は何も無い広場であるが、第二次世界大戦後は畑として使用されており、畑の畔に列石が並んでいたそうである。
その畑の畔の様子は、1947年の米軍空撮写真からわかる。
【唐人駄場】Photograph 2014.10.26

第二次世界大戦後の唐人駄場の様子 1947年4月23日 米軍撮影 M274-76

現在は、その列石は、全て埋められてしまっている(1977年頃に破壊)。これらの列石が自然に形成されるはずはなく、古代人によってこの地に意図的に立てられたものと考えられる。
この列石が破壊されてしまったのは、非常に残念なことであるが、幾つかの岩石は元の位置に残っているので紹介する。

唐人駄場の入口には、神石として崇めたと伝わる岩石が残っている(北緯32度44分37.57秒、東経132度58分59.29秒)。これらは当時から動いていない。
【唐人駄場の神石】Photograph 2014.10.26

また、唐人駄場の中央部に、3つの列石が残っている(北緯32度44分33.55秒、東経132度59分00.09秒)。
岩石の形は幅が薄い三角形である。唐人駄場の周りにあった列石は、その間に他の岩石を積んで猪除けの石垣としている。これらの列石は元の場所のままで動かされていない。やはり薄い三角形である。この列石の形状が何を意味するのかは不明である。
【唐人駄場の列石】Photograph 2014.10.26

【唐人駄場の列石】Photograph 2014.10.26

この列石はフランスのブルターニュ地方に残るカルナック列石に酷似している。
カルナック列石は、3000個の岩石が3キロメートルも続いている列石で、紀元前2000年頃に造られたとされるが、目的はやはり不明である。

【フランスカルナックの列石 wikipediaより 】


 
唐人駄場遺跡の立看板には、以下のように書かれている。

「唐人駄場遺跡  縄文早期(七千年程前)の玦状耳飾が出土し、足摺半島最古の人類足跡を記したこの台地には、縄文前期(六千年程前)の擬似縄文土器片につづき、石斧、石錐、石鏃、スクレイパー(ヘラ状の器具)などが出土して、縄文早、前、中期及び弥生の土器片、有史時代の須恵器片と併せて、原始、古代の人々の生活がしのばれる。縄文前期頃には、海汀線は、いまより十五~二〇mも高く縄文海進と呼ばれた。この時代、峯づたいに狩りをして歩いた原始の人々は、冬も暖かく、南向のなだらかな斜面陵丘の続くこの地に住居を定め、海辺に魚貝を獲り、山野に猟をしたことであろう。唐人石と呼ばれるひときわ高く巨大な花崗岩が積重なる岩群は、その下に幾つもの空間をつくり出しているが、これは自然が原始の人々にあたえたビルであり、もの見の塔であり城塞でもあったのではなかろうか。弥生式土器のかけらや、猪囲と呼ぶ石垣の風化は時と人の生活の厳しさを語ってくれる。」

この看板では、唐人石について、「これは自然が原始の人々にあたえたビルであり、もの見の塔であり城塞でもあったのではなかろうか。」と、書かれているが、果してそうであろうか?

■唐人石巨石群


唐人石巨石群への入り口の左手に南のサークルと呼ばれている場所がある。岩石が渦巻き状に並んでいて、その中心の岩石には、盃状穴がある。

入口の右手には、東のサークルと呼ばれている場所がある。ここも渦巻きの配列をしており、ピラミッド状の岩石がある。南のサークルと対をなすものと考えられる。
【南のストーンサークル】Photograph 2014.10.26

【東のストーンサークル】Photograph 2014.10.26

唐人石巨石群の中心的な岩石である複雑に重なった石組みは、台座を含めて4段になっている(北緯32度44分42.69秒、東経132度59分05.31秒)。
一番上の岩石は、下の3つの岩石と古地磁気の方位が異なっており、この岩石が動いてこの位置に収まったことが明確になっている。また、岩石は2箇所でかみ合っていて、いかにも不自然な石組みである。

亀石と呼ばれる特徴的な岩石は、南(180度)を向いている。男根のようであるが、真南を向いていることから方位石かも知れない。千畳敷石から亀石方向を見ると、それぞれ別の方向を向くように複雑に岩石が組み合わさっている。
【唐人石巨石群 最上段は動いている】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 不自然な石組み】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 亀石】Photograph 2014.10.26

【千畳敷石から亀石方向を撮影】Photograph 2014.10.26

千畳敷石(せんじょうじきいわ)は、平面積が最も広い岩石である。
ここは、黒潮が見えるほど見晴らしの良い場所で、神の降臨時に巫女が神楽を舞った場所と言われており、神楽石(かぐらいわ)とも呼ばれる。
千畳敷石から北を見ると、複数の岩石がそびえたっている。向って左が坊主石、顔が描かれているともいわれている。この頭の上には人が座れるほどの窪みがあり、巨大な盃状穴ではないかという意見もある。
左の岩石が坊主石を包み込むように湾曲しており、自然に形成されたとは思えない。また、後ろに1メートルずれた跡もあるとのことである。中央の四角い岩石は、斜めに倒れているが、昔は立っていたのではないかと考えられている。また、表面に削られた跡がある。

その右前の巨石は鏡石と呼ばれている岩石で、鏡面は冬至の日の出方向を向いていると言われているが、私の測定では、鏡面は140度を向いており、足摺の冬至の日の出方向である117.53度とは、少しずれているようである。
【唐人石巨石群 千畳敷石】Photograph 2014.10.26

【千畳敷石からの唐人石巨石群の全体】Photograph 2014.10.26

【千畳敷石からの唐人石巨石群の鏡石の部分】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 坊主石の上部】Photograph 2014.10.26

鬼の包丁石という名がつけられた切り立った岩石がある。スクレイパーである。このような巨石群の中には、なぜかよく見られる形状である。

1つの岩石が割れて形成されたように見える2つの岩石が並んでいる。その岩石には、花崗岩の巨晶つまりペグマタイトまたはアプライトのラインが入っているが、よく見ると、そのラインが右と左の岩石でずれている。つまり、この2つの岩石は自然に割れたものではなく、人の手が加わっている可能性が高い。
【唐人石巨石群 鬼の包丁石】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 ラインが合わない2つの岩】Photograph 2014.10.26

亀の背という名のついた岩石があるが、その向こうに特徴的な岩石が見える。
これは亀石と名付けられた岩石で、再生のエリアと言われる場所にある。
この亀石の左側には、2つに割れた岩石があることから、これが母親を表し、亀石が子供を表し、亀石の右にある倒れた岩石が父親を表すのではないかと考えられている。富田氏によると、最も重要な場所ではないかということである。
【唐人石巨石群 亀の背】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 再生のエリア】Photograph 2014.10.26

祭壇石と呼ばれる石組みの後ろの岩石はペグマタイトまたはアプライトのラインが入った赤い岩石、前の2つは青い岩石で岩質が異なる。また、古地磁気の調査によると、前の2つの岩石の方向が異なっていることが明確になっている。
岩質の異なる岩石が、自然に転がってきた可能性は非常に低く、人が2つの岩石をここに運んできたとしか考えられない。平らな岩面の前に岩石を置くというこの祭壇のような形式は、兵庫県西宮市の甑岩や奈良県山添村でも見られる石組みの形式である。

また、斜めに傾いた岩石の下に、倒れないように支え石があり、右の岩石の下に潜り込んでいる。これもまた人為的な構造と考えられる。
【唐人石巨石群 祭壇石】Photograph 2014.10.26

【唐人石巨石群 右の巨石に潜り込んだ岩】Photograph 2014.10.26

鏡岩の前に曲線の岩石があり、ろうそく石と呼ばれている。上部は割れて下に落ちているが、その曲線は、非常に美しく、自然に形成されたとは、とても思えない。
【唐人石巨石群 ろうそく石】Photograph 2014.10.26

■旧スカイライン沿いのイワクラ
この唐人石巨石群から東に1.7キロメートルの位置に白皇山という神奈備山がある。
頂上には白皇山神社の御神体石もあり、山中には数多くのイワクラが存在するようだが、時間がないので、替わりに旧スカイライン沿いのイワクラを富田氏に案内してもらった。

唐人石巨石群から東へ700メートルの場所に、丸みのある岩石を組み合わせたイワクラがある(北緯32度44分46.84秒、東経132度59分34.40秒)。
こよみ石と呼ばれる石組みで、人工的に組まれたように見える。こよみ石という名称は、この岩石の組み方や隙間が冬至や夏至の太陽の方向に結びついているということであろうか。今回は時間がなく、確認することはできなかった。このイワクラは、その女性的なフォルムから女神石とも呼ばれている。

この石組みのすぐ側には、こよみ石とは対照的に、直線的な岩石を組み合わせたイワクラもある。この上部には、石組みで四角い穴が形成されていて、その方向は250度である。足摺の立冬の日の入りの方向は251.46度である。冬至の方向でないのは残念だが、意図的に形成された穴かもしれない。
【こよみ石】Photograph 2014.10.26

【四角い石組み】Photograph 2014.10.26

さらに東に40メートル進むと、きれいな船の形をした船形石がある(北緯32度44分47.07秒、東経132度59分35.91秒)。
なぜか船尾の部分が別の岩石で造られ横に置かれているが、これだけ美しい曲線は、人の手で造られたものに違いない。また、この山の斜面には、岩石が階段状に並べられているそうである。

船形石から南に40メートルのところに陽石がある(北緯32度44分45.93秒、東経132度59分36.45秒)。
この陽石は上部に岩石が乗っている。少し離れたところには、そっくりな小型のものもあるようだ。
【船形石】Photograph 2014.10.26

【船形石】Photograph 2014.10.26

【陽石】Photograph 2014.10.26

陽石から北東に140メートル進むと、巨大な石組みがある(北緯32度44分47.55秒、東経132度59分41.35秒)。
名前も付けられていない石組みだが、真っ白い岩石と苔むして緑色になった岩石とのコントラストがとても美しい。一番大きな岩石の下は岩屋になっている。この岩屋の屋根の大岩を弾丸の形をした岩石が支えている。これが自然に形成されたものだろうか。この周りにストーンサークルらしきものもあり、とても興味深い石組みである。
【岩屋のある巨石 東から撮影】Photograph 2014.10.26
【岩屋のある巨石 遠景】Photograph 2014.10.26

【岩屋のある巨石 西から撮影】Photograph 2014.10.26

【岩屋のある巨石 岩屋の中】Photograph 2014.10.26

最後は、唐人駄場から3キロメートル離れた足摺岬の灘の大岩を案内してもらった(北緯32度43分27.09秒、東経133度00分20.12秒)。
高さは10メートルもある巨石である。岩石の下は岩屋になっており、村人たちが賭博などを行なう秘密の隠れ家としていたそうである。航海する船から目立つ岩石であり、シーマークの役目をするイワクラと考えられる。
【灘の大岩】Photograph 2014.10.26

■まとめ
述べてきたように、この足摺の巨石群を全て自然で形成されたとするには、無理がある。それこそ奇跡的な偶然が重ならないと起りえない状況が多く存在する。つまり、この巨石群には人の手が加わっていると考える方が理にかなっている。

また、「唐人駄場」という変わった名称は、何を意味するのであろうか?
辞書によると、「駄場」の「駄」は、「荷役に使う馬」を意味する。ここで馬の放牧が行なわれていたのであろうか。それとも「駄」は、「役に立たないもの、値うちのないもの」の意味もあることから、「駄場」とは、「役に立たない広場」を意味するのではないだろうか。
この広場が造られた目的が忘れ去られたあと、列石が並んだ広大な土地を見た人が、「役に立たない広場」と名付けたのかも知れない。
一方、「唐人駄場」や「唐人石」の「唐人」は、7~9世紀の中国の唐からの渡来人を指すものであろうか。いや、これらの巨石遺跡が唐の文化とは思えない。このおびただしい量の遺跡群は、縄文時代に造られたものと考えてよいだろう。そうすると、縄文時代から「異人」の言い伝えがあり、それが、「唐人」に変化したと考えられる。
つまり、足摺の地元住民ではなく、他の場所からこの地にやってきた「異人」がこの遺跡を建造したことを意味しているのではないのか。

では、その「異人」とは誰を指すのか?

その答えを知っているのは、足摺の山中に眠る巨石達だけである。


■謝辞
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった富田無事男氏に感謝いたします。
■参考文献

1 古田武彦:古代史をゆるがす―真実への7つの鍵―、原書房(1993)
2 古田武彦:土佐清水市文化財調査報告書より 足摺岬周辺の巨大遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書―(1996)、http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/asizurij.html
3 古田武彦:国際縄文学協会紀要第二号 縄文灯台―灯台実験と縄文語―、http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jotoudai.html
4 富田無事男:イワクラ(磐座)学会会報、「足摺ツアーに寄せて 黒潮接岸の半島足摺の巨石」(2007)、10号、43-47
5 柳原輝明:イワクラ(磐座)学会会報、「足摺巨石ツアー報告」(2007)、11号、8-18
6 森永速男:イワクラ(磐座)学会会報、「古地磁気研究が縁で関わった「巨石文明!?」を考える」(2005)、4号、30-36

2016年6月4日  「唐人駄場及び唐人石巨石群における人造の可能性」 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報36号 2016年4月11日発行 掲載