山之辺の道1

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Share (facebook)  Report 2008.11.1 平津 豊 Hiratsu Yutaka

天理から大神神社までの山之辺の道に点在する遺跡を訪ねた。
まずは、石上神宮(イソノカミジングウ)から。
延喜式では、石上坐布留御魂神社(イソノカミニイマスフルノミタマジンジャ)と呼ばれ、祭神は、神武東征の神剣フツノミタマであり、剣を御神体とする神社である。
日本書紀にこうある。熊野の高倉下と言う者があって、夜たまたま夢を見た。夢の中で、アマテラス大神がタケミカヅチノ神に告げて、「葦原中国(アシハラノナカツクニ)はひどく騒がしくて、乱れている。汝はまた赴いてこれを伐て。」こう命じた。タケミカヅチ神が答えて、「私が参りませんでも、私がかつて平定した時に使った剣を降しましたならば、国の中はしぜんと穏やかになりましょう。」こう言ったので、アマテラス大神も、「それで宜しい。」こう言った。そこでタケミカヅチノ神が、さっそくタカクラジに告げて、「我が剣は、名づけて韴霊(フツノミタマ)と言う。いま、これを汝の倉の中に置こうから、受け取って天孫に献上せよ。」こう命じた。
布留(フル)や布都(フツ)は、強い鎮魂の神を意味する。
また、日本書紀には、垂仁天皇のとき、朝廷が造らせた剣1千を石上神宮に奉納し、これを垂仁天皇の長女である五十瓊敷(イニシキノ)命に管理させ、後に物部十千根大連(モノノベノトチネノオオムラジ)に譲られた。物部氏は、有名な一族なのでいまさら説明の必要もないが、この石上神宮は、天皇の武器庫であり、物部は朝廷の軍事をつかさどった一族であった。
明治までは、この石上神宮にも本殿が無く、本殿の場所は禁足地であった。その禁足地は発掘され、神剣や神宝が出土した。その跡地に本殿が建てられている。朱塗りの拝殿も永久寺にあった住吉神社を鎌倉時代に移設したもので、この石上神宮本来の姿は現存していない。
しかし、天孫系の神社らしい風景に出会った。境内に鶏が放し飼いにされているのだ。それも非常に美しい鶏で、高い枝に登って、誇らしげに鳴いている。
鳥にまつわる風習は朝廷に数多く残っている。コウノトリやニワトリを献上したり、ヒヨヒヨ舞が舞われたりしている。神武東征のおりにも八咫烏(ヤタガラス)が現れて道案内している。
天孫系の神には、鳥がつきまとう。
山之辺の道を南に3km行くと祟神天皇陵がある。その西に三角縁神獣鏡の出土で有名な黒塚がある。全長130mの小さな古墳だが綺麗な形をしている。近くに天理市立黒塚古墳展示館があり、黒塚のことがよく分かる。この黒塚は盗難をまぬがれ石室や副葬品はほぼ完璧な形で残っていた。展示館には、この黒塚から出土した三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面のレプリカがある。卑弥呼の使者が魏の皇帝からもらった「銅鏡百枚」ではないかと言われているもので、邪馬台国が近畿にあったとする説の根拠の一つになっている。近くに卑弥呼の墓ではないかとされる箸塚もあることから信憑性が高い。
日本書紀には、三輪山の神である大物主の妻の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の墓が箸墓であると書かれている。この倭迹迹日百襲姫こそが卑弥呼ではないかと思うのだ。
さらに南に3kmほど行くと、桧原(ヒバラ)神社がある。
伊勢神宮は現在の地に至るまでに、転々としている。
ここは、宮中から天照大神(八咫鏡)を最初に移したのがこの地とされ、元伊勢と呼ばれている。古来から重要な地であった。
それは、この神社の様子を見ればよく分かる。柱に注連縄を渡した古い形の鳥居をくぐると、大神神社と同じ三つ鳥居から御神体である三輪山を拝す形になっている。
まったく飾り気の無い質素なその様子が逆に、神秘性を感じる。
日が暮れると、その神秘性はますます増していく。
神社本来の姿がここに残っているような気がする。
(Photograph 2008.11.1)

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