山添村~磐座の村~

 Report 2013.6.29 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2013年4月27日と28日、イワクラの村、奈良県山添村の磐座探索した。
山添村には、数多くの磐座(イワクラ)が存在する。前回のレポート「山添村~星の磐座~」で神野山(コウノヤマ)にある天空を地上に写したとされる磐座を紹介したので、今回は、それ以外の磐座を紹介する。

「イワクラ」とは何であろうか、
古事記・日本書紀に、「イワクラ」という言葉は、たった一箇所だけ現れる。天孫降臨の場面である。

古事記 『かれしかして、天津日子番能邇邇芸の命に詔らして、天の石位(アメノイワクラ)離ち、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天の浮橋に、うきまじまり、そりたたして、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめたまひき』
日本書紀 『皇孫、乃ち天磐座(アメノイワクラ)を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別を道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。』

どちらも、ニニギノミコトが、高天原のイワクラから、高千穂に降臨したと記されている。「イワクラ」は、高天原から葦原の中津国に旅立つ時の最終の出発点であったということがわかる。神が立つ場所、重要な地点というような意味があるようである。
イワクラ学会では、「イワクラ」という言葉は、広い意味に解釈し、神の依り代、天文観測装置、古代の道標、古代の海の道標、通信装置、古代測量の基点、結界石、モニュメントなどの役割を持つものがあると考えられている。
ちなみに、「山添村~星の磐座~」で紹介した神野山にある天空を地上に写した磐座は、この内、目的のわからないモニュメントにあたる。

これらの磐座の役割の中で、もっとも、一般的なものは、神の依り代を意味するものであろう。

古代人は、自然の中に神の存在を感じ、自然崇拝、アニミズムを発展させてきた。万物に神が宿ると信じていたのである。
やがて、神を招き、神に感謝と祈りを捧げる祭祀を行なうようになった。
その時、特異な形の岩や巨木を、神を降臨させる依り代として用いた。これが、磐座(イワクラ)、磐境(イワサカ)、神籬(ヒモロギ)といわれるものである。
そして、磐座・磐境・神籬の前で行なわれていた祭祀は、しだいに山の麓で行なわれるようになり、そこに神社が建てられた。これが神社の始まりである。
また、このような磐座・磐境・神籬のある山は、神奈備(カムナビ)と呼ばれて崇拝された。
さらに時代が下ると、磐座・磐境・神籬の前で行なわれていた祭祀は、しだいに山の麓で行なわれるようになり、そこに社が建てられた。
したがって、これら古代の神社には本殿がなく、拝殿からご神体山を拝する形で造られた。
三輪山を神体山として祀る大神神社、御室ヶ獄を神体山として祀る金鑚神社、守屋山を神体山として祀る諏訪大社などがこれにあたる。
さらに、祭祀が里で行なわれるようになると、磐座や神籬は、動かせないので、依り代を鏡や剣といったものに代え、それを収める本殿を建てて、拝殿から本殿を拝する現在の神社の形となった。

そのような神社の初期の形態を、この山添村では見ることができる。

 1. 吉備津神社
まず、山添村西波多の吉備津神社である(北緯34度41分15.7秒、東経136度2分11.9秒)。

【吉備津神社 拝殿】Photograph 2013.4.27

一直線の階段を登ると拝殿があり、そのさらに10段ほど上に巨大な岩にとりつくように小さな社がある。
この社には中身がなく、後から便宜的に付け加えられたもので、ご神体は明らかに巨大な磐座である。
この吉備津神社は、磐座を祀るために、その前に拝殿を建てた形式である。
それはこの神社が南西を向いていることからもわかる。神社を北東(70度)に拝する向きになっている。通常、神社は南を向いて建てられるが、この吉備津神社は磐座を拝する向きに建てられている。
また、この神社から神野山の頂上は、239度の方向に位置し、これは冬至の日の入りの方向(242度)にほぼ一致している。冬至の日に神野山を遥拝する場所であったと考えられる。
【吉備津神社 磐座 南西から】Photograph 2013.4.27

【吉備津神社 磐座】Photograph 2013.4.27

【吉備津神社 磐座 西から】Photograph 2013.4.27

【吉備津神社 磐座 南から】Photograph 2013.4.27

境内の石碑には、以下のように書かれている。

吉備津神社
山添村西波多(下津)字ヒガシウラ
併社 皇大神宮 津島神社 蛭子神社 金比羅大権現 吉守稲荷神社
祭神 吉備津彦之命
由来 
当社の御神体は、境内山腹の巨岩(高さ6メートル、幅10メートル)であり、古代人が崇拝した「神」降臨し給う岩石信仰をそのまま継承して今日に及び、村内に於いてもその起源は極めて古い。
 祭神吉備津彦之命は孝霊天皇の御子、崇神天皇の時、四道将軍のひとりとして大和朝廷に刃向かう吉備の国を攻め、吉備の冠者「温良」と戦い激戦の末これを平定、以後この国を統治し、大氏神として岡山県吉備津神社に祀られる。この時の戦いは後々桃太郎伝承として伝えられるが、当下津にも鬼が塚や鬼岩があって興味深い。
鉄の神吉備津神社関係は全国に約五百社とされるが、奈良県内に於いては当社ただひとつである。
河内川の瀬音響く本社は、下津里人の心の依り場として、その存在意義は極めて大である。
---------境内石碑より

なぜ、この地に吉備津彦が祀られているのかは不思議である。岡山の吉備津彦神社は、夏至の日の出の方向を向いて建てられている珍しい神社で、太陽信仰が強く影響しているのではないかと考えられる。ひよっとすると岡山の吉備津彦神社を造った氏族と、この山添村との間に何か関係があったのかもしれない。


2. 岩尾神社

これに良く似た形の神社として、山添村吉田の岩尾神社がある(北緯34度41分7.9秒、東経136度4分21.2秒)。
 【岩尾神社 拝殿】Photograph 2013.4.27

50段ほどの階段を登ると社殿とその後ろの巨石が目に入る。
拝殿はほぼ南を向いており、参拝者は、北を拝する形となっている。
拝殿の北には、東に男岩、西に女岩の磐座が鎮座している。
東の男岩は、特に大きく、表面には、石英や長石で形成されたペグマタイトのラインが走っていて、そのラインが2本交差している。そう、それはあの長寿岩の十字ベルトと同じである。(山添村~星の磐座~ 参照)
山添村の古代人は、このような十字ベルトを神聖視していたようである。
【岩尾神社 女岩】Photograph 2013.4.27

【岩尾神社 男岩を東から撮影】Photograph 2013.4.27

【岩尾神社 男岩の表面の十字ベルト】Photograph 2013.4.27

【岩尾神社 女岩を西から撮影 奥は男岩】Photograph 2013.4.27

この男岩と女岩の間に小さな本殿が置いてあるが、これは、後から便宜的に付け加えたもので、この神社のご神体は、男岩と女岩の磐座である。
つまり、この神社も、磐座を祀るためにその前に拝殿を建てた形式である。

境内の案内板には、以下のように書かれている。

山添村指定史跡 岩尾神社の神体石(吉田区)
昭和四十一年九月二十日指定

大字吉田の氏神で、神社の名も岩尾(いわお・・・大きな石の意)と呼ぶように、巨大な二個の自然石をご神体とし、その間に祠を設けて岩尾大神が祭られている。
その昔、この地に神が降臨された際、持参されたと伝えられる襷の跡のある巨岩、馬の蹄跡のある石、一荷にして運ばれたという庭の石などがあり、箪笥、長持、葛籠石、鏡石などと名付け、巨石崇拝の伝承として極めて貴重な存在となっている。
----------------境内の案内板より


ご祭神は、岩尾大神である。

岩尾神社の周りには、たくさんの巨石がゴロゴロしているのだが、どれがこの掲示板に書かれている箪笥なのか長持なのかを比定することはできなかった。
また、この岩尾神社では、子供たちが川原で拾ってきた石を参拝者が買い求めて供える夏祭「石売り行事」が残っているという。石に対して特別な思いを持っていたことがうかがえる。
【岩尾神社 拝殿西の巨石群】Photograph 2013.4.27



3. 六所神社

次に、山添村峯寺に鎮座する六所神社(ロクショジンジャ)である(北緯34度40分38.6秒、東経135度58分40.6秒)。
【六所神社】Photograph 2013.4.27

ここの本殿は、磐座の上に建っている。
もともと、この磐座をご神体として祀っていたものが、その上に立派な春日造りの本殿を建てたと考えられる。磐座と本殿が同じ場所に存在している例である。この後の時代になると、神社の磐座と本殿は分離され、本殿は、もっと祭祀が行ないやすい場所に移っていくことになる。

この神社もまた、南面しておらず、南東を向いた社殿で、北西(290度)を拝する向きになっている。
本殿の左手には、杵築神社、宗像神社、水神社、恵比須神社の小さな祠と井戸がある。
また、境内には、不動明王立像や毘沙門天像などが岩に彫られているが、いずれも磐座が使われているようである。
境内の境には、石垣はなく、小さな石が並んでいる。これは、巨大な磐座によく見られる石の結界の名残ではないかと考えられる。
【六所神社 本殿を南から撮影】Photograph 2013.4.27

【六所神社 本殿を北から撮影】Photograph 2013.4.27

【六所神社 境内の不動明王立像】Photograph 2013.4.27

【六所神社 本殿の南の磨崖仏が彫られた磐座】Photograph 2013.4.27


拝殿には、大山祇命が掲げられていたが、御祭神は、饒速日命 天忍穂耳命 天津彦根命 天穂日命 熊野忍踏命 熊野忍隅命の六柱の神との説や、熯速日命、天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野忍隈命との説がある。

天照大神と須佐之男が誓約(ウケイ)によって産んだ男神は、一般には5柱であるが、『日本書紀』の一書では6柱となっており、六所神社という神社名から、六柱の神を意味するとすれば、この神々が相応しいと思う。つまり、天之忍穂耳命(アメオシホミミノミコト)、天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、活津日子根命(イクツヒコネノミコト)、熊野久須毘命(クマノクスビコノミコト)、熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)である。
これは、神野山の王塚に熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)が祀られていたことからも納得できる。

この神社は、延喜式の天乃石吸神社(アメノイハスヒノジンジャ)であると考えられ、由緒ある古社である。本殿が巨石の上に据えられていることから、石スエから石吸に転じたのではないかといわれている。



4. 八柱神社

岩屋の八柱神社(ヤハシラジンジャ)は、拝殿と本殿を備えた普通の神社形式である(北緯34度38分48.4秒、東経136度3分29.0秒)。
【八柱神社 拝殿】Photograph 2013.4.28

筒井順慶が伊賀攻めのときに鉾を立てかけて戦勝を祈願したという「鉾立ての木」がある。
御祭神は、神産日神(カミムスビノカミ)、高御産日神(タカミムスビノカミ)、玉積産日神(タマツメムスビノカミ)、生産日神(イクムスビノカミ)、足産日神(タルムスビノカミ)、大宮売神(オオミヤノメノカミ)、御食津神(ミケツカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)の八柱である。これは天皇を守護するために宮中にあった八神殿(ハッシンデン)の神々である。

すぐ側に不動滝があり、もともとこの不動滝をご神体とする神社であったのではないか、あるいは、社殿も南西を向いており、北東(60度)を拝する向きになっていること、また岩屋という地名から、この社殿の北東方向の山の中に磐座が存在するのかもしれない。
このように里に下りた神社から、元の姿を推測することは難しい。
境内に小さな亀石がある。

【八柱神社 不動滝】Photograph 2013.4.28

【八柱神社 亀石】Photograph 2013.4.28



5. 神波多神社

中峯山(チュウムザン)の神波多神社(カンハタジンジャ)は、延喜式に名を記される古社であり、おそらく村で最大の神社である(北緯34度41分24.8秒、東経136度3分53.1秒)。
【神波多神社の拝殿と本殿】Photograph 2013.4.27

【神波多神社の北にある六柱神社】Photograph 2013.4.27

案内板には以下のように書かれている。

神波多神社案内
神波多神社(牛頭天王)は、「延喜式」神名帳(927)にその名が見られる古社で、「延喜式」臨時祭に畿内堺10ケ所に祀った疫神のうち「大和与伊賀堺」に祀られた疫神であると考えられている。
また、本殿西方から出土した平安期の古鏡や、正和元年(1312)の銘を刻む石灯篭(村指定文化財)があるなどから、かなり古くから信仰を集めていたようである。
 天正9年(1581)織田信長の伊賀攻めの際に兵火に遭ったと伝えられ、縁記等の資料を欠き沿革の詳細は明らかでない。当社の祭神は、素盞嗚命のほか春日大神・櫛稲田姫命を祀る。古来から「波多の天王」と呼ばれ、大和・伊賀・山城など広くにわたり崇敬者が多い。
江戸時代前期(17世紀中頃)の建立と推定される本殿は、奈良県指定文化財(建造物)である。建立以来一度も根本的な解体修理がなかったことから各部が緩み放置出来ない状 態になっていたので、保存のため平成6年から同7年(1995)にかけ初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻った。
主なお祭は祈年祭(2月25日)祇園祭(旧6月13日) 例祭(10月15日)新嘗祭(11月25日)である。  神波多神社 山添村教育委員会
-----------------------:境内案内板より


この神社は、一見すると、拝殿と本殿を備えた立派な神社である。境内には、多くの摂社末社が存在しているが磐座は見当たらない。
しかし、この神社の境内の摂社末社との位置関係が異常である。

五間社流造桧皮葺の本殿と拝殿は、南を向いているが、その本殿の直ぐ北に東を向いた八柱神社と、さらにその北に東を向いた六柱神社が並んでいるのである。
また、拝殿の前にスペースが無いことから、本来は八柱神社と六柱神社が建っていた境内に、後から牛頭天王を祀る神社を建てたと考えられる。
境内には、この他に佐田社、熊野社、稲荷社、津島社、山神社、住吉明神、神武天皇遥拝所がある。

神波多神社の御祭神は、神須佐之男命で、櫛稲田姫神と春日大神を合祀している。
一方、八柱神社の御祭神は、山添村史によると、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)、天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、活津日子根命(イクツヒコネノミコト)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)、多紀理比賣命(タキリビメノミコト)、市寸嶋比賣命(イツキシマヒメノミコト)、多伎都比賣命(タギツヒメノミコト)であり、これは、天照大神と須佐之男が誓約によって産んだ五男神と三女神であり、岩屋の八柱神社の御祭神とは異なるらしい。
六柱神社は、六社権現で産土神とされているが、六柱は定かではない。

この神社の属する中峯山には多くの磐座が存在していることが報告されている。古来は、それらの磐座を祀っていたものが、里の地に神社として祀られ、磐座が忘れ去られてしまったのではないかと考えられる。

このように山添村は、磐座信仰から神社が形成される過程をたどることができる貴重な地域である。


6. 十市姫の磐座

さて、磐座探索に戻ることにする。
中峯山中の磐座は、探索することはできなかったが、神波多神社の近くの舟岩を探索することにした。
神波多神社の近くで2、3人の村人に聞いて、だいたいの場所は把握できた。ただし舟岩には近づけないらしい。
そのうちの一人から、そこにもよく写真を撮りに来ている岩があるよと教えられ、指差すほうに行ってみると、大きな岩の上に木が生えている丸い巨石が鎮座していた。その前に立て看板があり、以下のように書いてある。

十市姫(トイチヒメ)の歌

今から千三百年前、天智天皇は、病の床に実弟大海人皇子を呼んで後事を託した。しかし、大海人皇子は、天智の子、大友皇子を推し、頭を剃って吉野山の仏門に入った。
やがて天智天皇は病没、大友が弘文天皇となった六月、大海人は吉野で兵を挙げ、一挙に近江軍を攻め、大勝利のうちに天武天皇となった。いわゆる壬申の乱である。
大友は自害して果て、夫を父に殺された十市姫は、母額田君と共に、父の許に帰った。
それから三年、十市姫は、伊勢参拝の旅に立ち、途中、波多野の地で憩い、次のように歌をうたった。
ハタ 横山の巌を見て(万葉集)吹芡刀自作
河上のつゆ岩群に草生さず
    常にもがもな処處女にて

それから三年、傷心の十市姫は、飛鳥の宮廷でにわかに発病し、悲運の常處女として三十年の短い生涯を終えたのであった。 平成二年 中峯山
-------------------立看板より

この看板の「処處女」は誤りで「常處女(とこおとめ)」である。

波多の横山の巌がどの磐座を指すのかは、定かではないが、この看板は、この磐座であると言っているようである。とりあえず、この磐座を「十市姫の磐座」と名付けておく。
【十市姫の磐座】Photograph 2013.4.27


7. 舟岩

そこから少し歩いたところに舟岩があるが、村の人の言うように周りが沼地で近寄れない。沼地の中には舟岩と思われる岩の他に、2つの岩も見える。
素盞嗚尊が新羅より乗ってきたものと言われているが、これは、神波多神社に素盞嗚を勧請した後に作られた話で、この舟岩はそれよりももっと古くから存在していた磐座である。
舟岩は、長さ10メートル、幅6メートル、高さ3メートルで、そのへさきが北を向いていると言われるが、遠すぎて形が良くわからない。また船尾にあたる岩がばらばらに配置されていることから、これはアルゴ座を示しているのではないかという説がある。アルゴ座のカノープスは、シリウスに次いで2番目に明るい星であり、海洋民族である波多一族が崇めていたのではないかということである。実際に、昭和初期までは注連縄がかけられ祀られていたらしい。
【舟岩】Photograph 2013.4.27


8. 烏ケ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏

次に布目ダム付近の磐座を探索に行った。
布目ダムの南西に烏ケ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏がある。

立看板には以下のように書いてある。

山添村指定文化財(昭和48年2月21日指定)
烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏 桐山区
阿弥陀像と地蔵像を淵の中の巨岩に彫った磨崖仏で、他に類例がなく、寛政の年号と法名を切りつけている。二尊とも像高は87cmである。烏ヶ淵の堰を築造した故人の供養と度重なる水害を逃れるために切りつけたと考えられる。なお、布目ダムの建設による水没を免れるため、巨岩を切断して移築し、ここに復元した。移転前の状態を維持するよう、池を設けて安置している。   山添村
-------------------立看板より


【烏ケ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏】Photograph 2013.4.27


この磨崖仏が彫られた岩は、磐座であったと考えられる。また、布目ダムの建設により村が水没したのであるが、この磐座は、奇しくも磨崖仏が彫られていたために、移設されて保存されたのである。


9. 腰越ウチカタビロの土塚

布目ダムの北東部に腰越ウチカタビロの土塚がある。2メートル四方の小さな土塚であるが、これも水没するためにこの地に移転されたものである。

石碑には、以下のように書いてある

腰越ウチカタビロの土塚
此の土塚は北野天神社の北野天神社の例祭五社巡りのとき御幣を収め奉田楽を奏し神拝される場所である。しかし、布目ダム建設により此の土塚も水没することとなったために昔よりの伝統行事を守るべくこの地に移し奉祭することにしたものである。なお、旧の場所は、此の地より北北西に200米の所にあった・又、縄文時代早期の集落跡であったことが発掘調査によりわかったことをここに加えておく。 平成元年十月吉日
-------------------石碑より


その隣にも2つの石が残されており、石碑には、以下のように書いてある。

移転之記
一、フジノミ楔斉場
旧所在地 この地より西南約二百米 的野川と深江川合流点より下の方三十米山裾の川端に高さ三米 横巾四米の巨岩に不動明王の梵字が刻まれていたこの本体のみ切り抜き移転したものである。
一、用水路碑文 水路沿いの巨岩巨石に彫られていた部分を切り落とし移転す。
由緒
今を去る二百八十年以前ウチカタヒロの水田壱町五反歩に灌漑用水路を計画し深江川最下流を堰止め山裾の岩磐又岩石の難所約二百米を掘り破り水路をつくられしが昔日の事で道具又少なく作業は極めて困難なうえ頗る危険であり此の時巨岩に不動明王の梵字を彫り刻み石破り傍で僧侶が作業の安全と工事の成就を祈り続けていたとの言伝えあり
用水路の碑文は水路開通完成時の年号と石工名である今の度図らずも布目ダム建設により湖底に沈むため此の地に移し祖先の大偉業と苦労を想い起こす可く後世に永く伝えおくものなり
平成元年十ニ月吉日 建之
-------------------石碑より

【腰越ウチカタビロの土塚】Photograph 2013.4.27

この布目ダムの下には、縄文時代早期の集落跡があり、巨石がたくさんあったことがわかる。
「山添村~星の磐座~」でも書いたが、山添村は、数多くの縄文時代の遺跡が発掘され、その歴史は12000年前に遡るといわれている。今でこそ4000人ほどの村であるが、縄文時代には、多くの人が住んでいた都市であった。したがって、この山添村に存在する多くの磐座を造るのに必要な労力も確保できたと考えられる。
その磐座や縄文時代の遺跡が水没してしまったのは残念である。

また、「ウチカタビロ」とはどういう意味なのだろうか、縄文時代の言葉が今に伝わったのではないかと考えるが、意味はわからない。言霊の研究者の意見を聞いてみたいものだ。


10. 天王の森

布目ダムで最も注目すべき磐座は、ダムの南の端にある「天王の森」である。
立看板には以下のように書かれている。

山添村指定史跡(昭和49年7月10日指定)
天王の森(牛頭天王祭祀)峰寺区
一種の巨石崇拝と考えられ、山頂の巨岩群に牛頭天王を勧請したので天王の森と呼ばれ、古くから神聖禁忌の地である。布目川の中にある水神の森(水神祭祀)とあわせて、近在の信仰を集めている。なお、布目ダム建設によって、この岩山の一部が道路敷となったが、巨岩は現状のままこの地に保存された。山添村
-------------------立看板より


神波多神社やウチカタビロのように、この村には、牛頭天王が大々的に勧請され、磐座信仰が隠されてしまったようである。
この磐座は、大変興味深い構造をしており、大きな三つの石が揃って南西(200度)を向いている。またその側にある小さな三つ石も南を向いている。さらに、東側にメンヒルがあり、これは先ほどの大きな三つ石から東西線を形成している。

この磐座が南の空の星を指していると仮定すると、三つという数から、オリオン座の三ツ星(ミンタカ、アルニラム、アルニタク)を意味しているのではないかという考えが浮かぶ。この三つ星は冬の空で最も目立つ存在であり、その直ぐ下には小三つ星と呼ばれる星も存在するのだ。この磐座の構造にそっくりである。
「山添村~星の磐座~」で述べたように、山添村の古代人は、星に異常とも言える想いを持っていたのであるから、オリオン座の三つ星に興味を持っていたとしても不思議ではない。
また、この磐座のロケーションを考えるとすばらしい光景が浮かんでくる。この三つ石は、今は道路と同じレベルにあるが、ダムが建設される前は、この道路は存在せず、磐座は山の上にそびえたっていたのである。人々は、この三つ石を遥か下から仰ぎ見たことであろう。

【天王の森 南西から撮影】Photograph 2013.4.27

【天王の森 北から撮影】Photograph 2013.4.27

【天王の森 東側のメンヒル】Photograph 2013.4.27

【天王の森 東から撮影】Photograph 2013.4.27


11. 牛ヶ峰岩屋枡型岩

布目ダム付近で一番有名な磐座は、ダム北東部の牛ヶ峰岩屋枡型である。
ダムの東湖畔にダムに沈んだ牛ヶ峰の民家の共同墓地があるので、ここに車をとめて、山を登る。ここには、六地蔵磨崖仏もある。
山道は階段に整備されていて登りやすいが、一日の最後に登るのはちよっときつい。また一本道なのだが、案内看板がほとんどなく、心細くなってきた。100メートルほど登り、日も落ちてきたので引き返そうかと思い始めていたとき、巨大な岩にたどり着いた。
牛ヶ峰の岩屋である。高さ6メートル幅13メートル奥行き6メートルの巨石に大日如来が刻んである(金剛界大日如来線刻磨崖仏)。この巨石が別の岩で支えられており、岩窟が形成されている。その岩窟の中に護摩壇がある。この岩窟自体が岩屋寺という寺だったようである。
大日如来が彫られた面は西を向いており、夕日が大日如来を照らすと同時に岩屋の奥に射し込む構造に造られている。
立看板には以下のように書いてある。

山添村指定(名勝)岩屋枡型岩案内
由来(伝説)
この地域一帯をみやまと呼んでいる。中世以前の南都春日社境北野都杣の跡と考えられる。岩屋の磨崖仏は弘法大師の作で大師はこの大日如来像を刻み終わるとその時使用したのみとつちを枡型の中に納めたと伝えられる。古来二つの岩を大師岩と呼ばれた枡型の岩が節理によって二つに割れてころがりおちたのが岩屋の岩であるといわれ岩屋(岩室)の中には護摩壇があって牛ヶ峰善龍寺の僧はここにこもって山居した。 山添村教育委員会
-------------------立看板より


【牛ヶ峰岩屋枡型岩 西から撮影】Photograph 2013.4.27

【牛ヶ峰岩屋枡型岩 西から撮影 大日如来像】Photograph 2013.4.27

【牛ヶ峰岩屋枡型岩 岩屋の中】Photograph 2013.4.27

神仏習合によって、もともと磐座であった岩の表面に仏を彫り、磐座を仏教が利用したものである。

この看板をちゃんと読めばわかったことなのだが、我々は、この磐座が岩屋枡型だと思って引き返してしまったのである。
実は、この上に本体ともいえる枡型という、さらに巨大な磐座があったのである。この岩屋は、上方にある磐座の一部が割れてこの場所に落ちてきたものだそうだ。

日が落ちかけていたので仕方がないが残念である。次回、山添村を訪れたときの楽しみにとっておくことにした。


12. 遅瀬の亀石・鏡石

この日は、山添村遅瀬のアートスコープはかたで宿泊した。
次の日、宿から近い遅瀬の亀石を見に行った。
宿の主人に教えられた場所で、農作業をしている人に尋ねると、丁寧に教えていただいた。
車道脇に車をとめて細い道を歩く、道の側に遅瀬の十三磨崖仏があるので、これを目印とするのがわかりやすい。ここから300メートル歩いていくと民家の庭に大きな岩が見えてくる。
遅瀬の亀石と呼ばれる磐座である。ある方向からは亀に見えるのだが、この岩は、2つの岩とその間の薄い岩の三つの岩で構成されている。この三つの岩は南東(125度)を向いている。

【遅瀬の亀石 北から撮影】Photograph 2013.4.28

【遅瀬の亀石 南東から撮影】Photograph 2013.4.28

この付近に遅瀬の鏡石と呼ばれる磐座もあるという情報であったが、最初は、見つけることはできなかった。しかし、村議の奥谷氏に詳しい場所を教えていただき、再度訪れて、南西に50メートルほどのところに見つけることができた。
刀でスパッと斬ったような面を東に向けた磐座である。鏡石の側まで登らなかったので、この鏡石が朝日を反射することができる位置に存在するのかどうかは確認できなかったが、小さな祠もあり、意図を持ってここに置かれた磐座であることは間違いないようだ。

【遅瀬の鏡石 南東から撮影】Photograph 2013.4.28

【遅瀬の鏡石 南東から撮影】Photograph 2013.4.28


13. 大川地蔵十王磨崖仏

さて、車の所に帰ってくると、先ほどの村人が近寄ってきて、近くに大きな磨崖仏があると、わざわざ教えていただいた。
せっかくなので、それを見に行くことにした。名張川沿いの785号線を東に1キロメートルほど走るとカントリーパーク大川がある。ここは、大川(オオコ)遺跡の跡に作られた公園である。大川遺跡は縄文初期の遺跡で出土した押型文土器は大川式と呼ばれる近畿地方で最も古い押型文土器である。この山添村に古くから人々が住んでいた証拠の一つである。

ここから川の対岸に大きな磨崖仏(大川地蔵十王磨崖仏)が見える。
【大川地蔵十王磨崖仏】Photograph 2013.4.28


14. 愛宕神社 

次に訪れたのは、愛宕神社である。山添村役場から南に1キロメートルほど走ると十二社神社があるが、その向かいに磐座がある。
この磐座は愛宕神社と呼ばれているらしい。愛宕神社は火伏せ・防火の神であるが、なぜこの磐座が愛宕神社と呼ばれているのか良くわからない。
この前の十二社神社のご祭神が、家津美御子大神、伊邪那美大神、事解之男神、伊邪那岐大神、速玉之男神、天照皇大神、天忍穗耳命 瓊々杵命、彦穗々出見命、鵜鵜草葺不合命、軻遇突智命、埴山姫命、弥都波能売命、稚産靈命という熊野十二所権現が祀られており、熊野信仰の神社である。
また、この神社では無形文化財のお陰踊りや伊勢参りという踊りが伝わっており、そこで「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕さまへは月詣り」と唄われるという。この歌が関係しているのかもしれない。
いずれにしろ、熊野十二所権現は、本地垂迹説の後の中世のことであり、この磐座は、それよりも遥かに古い。

この磐座は、昨日見た天王の森の磐座に良く似ている。低い丘の上に三つの石が並んでいる。三つの石は南東(140度)を向いている。角度は少し異なるが、やはり南の空を向いており、オリオン座との関係が疑わしい。
【愛宕神社の磐座 東から撮影】Photograph 2013.4.28

【愛宕神社の磐座 西から撮影】Photograph 2013.4.28

山添村を探索していると山ノ神と書かれた石碑をいたるところで見た。
山添村には、山ノ神がどの大字にも祀られており、1月7日の山ノ神の日に神参りする風習があるということである。
そこでは、カギヒキ・クラタテという特殊な行事が行なわれる。
カギヒキは、木の股がカギ状になったところを切り取ったものを神ノ木や注連縄に引っ掛けて、引っ張りながら歌を唄い、山ノ神を呼び寄せる神事である。
一方、クラタテは、四角い半紙の四隅に幣をつけたカヤの棒を立て、中央にコウジみかんを刺したカヤの棒を立てて、山ノ神が降臨する場所を作り、半紙の上には、干し柿や鏡餅を供えて、蔵が建つほどの豊作であるよう祈る神事である。
また、明日香村や桜井で行なわれているカンジョウ縄も伝わっている。

このように、古い伝承や言い伝えが残っているのは、山添村が山に囲まれた辺ぴな場所であったからと考えられる。
昔話の風景の中で、村人は、今もなお自然と共存しているのである。

今回の旅で、一番印象に残ったのは、村人の優しさであった。
道に迷っていると、こちらから道を尋ねる前に、向こうから近寄ってきて教えてくれたり、自分がわからない場合は、知っている人に聞いてきてくれるなど、とても心優しい人たちであった。
外からやってきた私たちが珍しかったこともあるだろうが、最近、なかなかこのような人々に出会うことは無い。こちらまで、気持ちが清らかになった。

山添村に2日間居たのだが、見逃した磐座も多く、再度、この村を訪れなくてはならない。
その時、この優しい村人たちに再会するのが楽しみである。

2013年6月29日  「山添村 ~磐座の村~」 レポート 平津豊