宇陀市・山添村イワクラツアー

 Report 2015.3.31 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2014年12月20日、21日の2日間に渡って行なわれたイワクラ(磐座)学会の宇陀市・山添村イワクラツアーに参加した。
奈良県近鉄大阪線榛原駅で19名が集合し、12時40分、バスに乗って出発した。
天気は雨である。イワクラ学会としては珍しいことではない。雨でも果敢に決行するのが伝統である。

1 榛原の立石群(13時0分)
榛原の立石と蛇石と寝石とを合わせてカラトの三名石と言われている。今回は、立石と蛇石を見学した。
巌太郎、巌次郎、巌三郎と名付けられた縦長の丸い岩が山中に不安定に立っているのは不自然に見える。しかもそれぞれ、7本、3本とかたまって立っていて、何者かが、ある意図を持って岩を運んで立てたと考えたいところだが、山中には、風化で顔を出しかかっている岩も見られ、全てが人造物と結論づけるのは、少し早いかもしれない。
ここは、柳原輝明氏が着目しているイワクラ群で、柳原氏は、山添村の神野山と同じように、星座を模しているのではないかと考えられている。

□巌太郎(北緯34度29分10.60秒、東経136度00分04.22秒)
標高600メートルの山の頂上に7本の岩が立ってる。柳原氏はプレアデス星団ではないかと推測されている。
【榛原の立石 巌太郎】Photograph 2014.12.20

□巌三郎(北緯34度29分13.66秒、東経135度59分59.92秒)
3本の岩が急斜面に立っている。柳原氏はオリオン座の三つ星ではないかと推測されている。
【榛原の立石 巌三郎】Photograph 2014.12.20

□巌次郎(北緯34度29分11.64秒、東経135度59分59.65秒)
クジラのような岩肌の岩がそそり立っている。
【榛原の立石 巌次郎】Photograph 2014.12.20

【榛原の斜面が崩れ、縦長の岩が顔を出している。】Photograph 2014.12.20
この山中の立石群は、このようにして自然成立した可能性もある。

□蛇石(北緯34度29分03.13秒、東経136度00分15.41秒)
7メートルの長さの非常に奇妙な岩で、表面に蛇が這ったような溝があることから蛇石と名付けられている。縄文人の芸術性を感じるデザインであり、私は、H・R・ギーガーが描いたスターシップを想像した。とても自然に形成されたとは思えない形である。柳原氏は、近くに丹生神社があることから水銀の精製に使用したものではないかと推測されている。
【榛原の蛇石】Photograph 2014.12.20

【榛原の蛇石】Photograph 2014.12.20

私がここに来るのは二度目である。前回訪れたとき、山の頂上の立石が夕日に照らされている光景を見て、この岩達が古代からずっと夕日を見つめ続けていて、まるでイースター島のモアイのようだと感じた。
また、山の入口には、本当にモアイの顔が彫られた岩が立っている。これはちょっとでき過ぎであり、誰かのいたずらであろうと思っていると、岡本静雄氏から、この立石の中でイースター島の線刻らしきものを発見したとの情報が入った。
この山には、大きな謎が隠されている可能性があり、詳細な調査が必要である。
14時02分、榛原の蛇石を出発して、墨坂神社に向った。
【榛原の立石】Photograph 2014.08.10
沈む夕日を見つめる立石

【榛原の立石】Photograph 2014.08.10
顔が彫られた立石

2 墨坂神社(14時25分)
□墨坂神社(北緯34度31分41.11秒、東経135度57分37.57秒)。
『古事記』では、崇神天皇の時代に悪病が流行したとき、大物主神が天皇の夢に現れて、墨坂の神に赤色の盾矛を、大阪の神に黒色の盾矛を祀れと神託したと書かれている。
現在の墨坂神社の御祭神は、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神という事になっているが、『日本書紀』雄略天皇七年には、三諸岳の神について、「此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく菟田の墨坂神なりといふ」と書いてあり、墨坂神は大物主神と同一であろう。
また、この神社は、西峠の天ノ森から現在の場所に遷座したと伝えられている。
境内の大山祇神社の脇に小さな磐座が祀られており、これは、大将軍山から移設されたものだそうだ。
また、龍王宮があり、そこから波動水という御神水も湧き出している。
14時40分、バスは墨坂神社を出発し、山添村へ向った。
【墨坂神社の磐座】Photograph 2014.08.10

【墨坂神社の磐座】Photograph 2014.08.10
3 鍋倉溪付近(15時17分)
当初、牛ヶ峰岩屋枡型岩で冬至の日の入りを観察する予定であったが、雨が強くなってきたので予定を変更し、二日目の午後に行く予定であった塩瀬地蔵、太師の硯石および鍋倉溪を見学した。

□塩瀬地蔵(北緯34度40分09.36秒、東経136度00分20.09秒)。
鎌倉時代に彫られた磨崖仏で、昔の街道沿いにあり、通行する人々の安全と眼のお護り地蔵とされてきた。
この巨石は磐座で、縄文時代の祀り場と思われる。9月に行なわれたイワクラツアーでは、ここから西に100メートルの所にある亀石が紹介されたが、この場所との関係がありそうである。
【塩瀬地蔵】Photograph 2014.9.27

□大師の硯石(北緯34度40分13.01秒、東経136度00分19.37秒)。
4メートルの大石の窪みに水がたまっており、この水は溢れもせず枯れもしないと言われている。
弘法大師が神野山に登られるとき、村人が塩に困っていたので、錫杖で岩をたたくと潮が湧き出したという逸話が残っている。
【大師の硯石】Photograph 2014.12.20

□鍋倉溪(北緯34度40分17.11秒、東経136度00分12.44秒)。
1〜2メートルの大きさの真っ黒い岩が累々と積み重なって、650メートルもの長さにわたって不思議な景色を形成している。まるで他の惑星に来たような異様な光景である。
立看板には以下のように書いてある。

奈良県指定 名勝
奈良県立月ヶ瀬神野山自然公園・第一種特別地域
なべくら渓
この地点から上方へ550メートル、下方へ100メートル、幅平均25メートルにわたって巨岩怪石がるいるいと続いています。そしてこの谷を流れくだる水は岩石の下を深く伏流し、岩の間からかすかにその水音のみを聞くことができます。これは、地質地形上、特別の条件のもとに生じたきわめて珍しい風化現象で、全国的にも学術上の価値が高く評価されています。
神野山周辺の岩質
この附近の大和高原地域一帯は、花崗岩質で形成されていますが、その中でこの神野山だけは角閃斑糲岩という深成岩(火成岩の一種)でできており、岩質が非常に堅いために侵蝕にたえてこの山容ができたものと考えられています。
「なべくら渓」成因
伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げあった岩だという伝説や、火山の溶岩が流れ出して固ったものだなどいろいろな俗説はありますが、この成因は前地質時代に山の表面が風化して、次第に細かく土壌化する際に、前記の角閃斑糲岩のとくに堅い部分が風化にたえて岩石のまま残り、当時の谷底に自然に移動して集まったもので、その後地形の変化に伴って現在のような浅い谷となり岩石が昔の谷にそのまま長い列をなして堆積したものと考えられています。そして流れくだる水は一層谷底を深く侵蝕して岩石の下をくぐり全くの伏流となったものといわれています。
「なべくら」の名称の由来
堆積した岩のそれぞれが黒くすすけた色をしており鍋の底を連想させるところからこのように呼ばれるようになったと言い伝えられています。
奈良県山添村 ─立看板より─

【鍋倉溪】Photograph 2014.12.20

この鍋倉渓を形成する角閃石斑糲岩は、鉄やマグネシウムを多く含むために比重は重く、風雨に数年曝すと、表面に錆が生じて黒褐色のざらざらした地肌になるので、庭石に好んで使用される。生駒山から多く産出し、生駒石と呼ばれるものである。
看板では、自然に形成されたものであると説明されているが、ここだけに角閃石斑糲岩が存在しているのは、偶然にしてはでき過ぎていないだろうか、むしろ人が造ったと考えるべきではないだろうか。
この考えを最初に思いついたのが柳原輝明氏である。
柳原氏は、鍋倉渓を天の川と考えたときに、王塚が白鳥座のデネブ、八畳岩が琴座のベガ、天狗岩が鷲座のアルタイル、竜王岩がさそり座のアンタレスの位置に存在することを発見し、その後も北斗岩などを次々と見つけられている。
そして、今回、柳原氏から南十字星ではないかと考えられる岩が紹介された。

□南十字星のイワクラ(北緯34度40分17.94秒、東経136度00分12.85秒)
この岩に最初に着目したのは武部正俊氏である(詳細はイワクラ(磐座)学会 会報32号)。
小さいながら3点で支えられたバランス石でその石の下に十字形に石が並べられている。ツアーのメンバーは、雨の降る中、立ち止まり、この石組についてしばらく議論を行なっていた。
15時49分、鍋倉溪を出発し、イワクラ学会員にはおなじみの長寿岩に向った。
【南十字星のイワクラ】Photograph 2014.12.20

4 長寿岩(16時00分)
□長寿岩(北緯34度41分06.53秒、東経136度02分31.14秒)。
1992年にふるさとセンターの造成工事を行なっていたところ、小高い丘の上に不安定な形で台座の上に乗った巨大な石のボールが現れた。当時、この山の中に人が入ることもなく、この石の存在も謂れも伝わっていなかったため、その重要性には誰も気がつかなかったのである。
造成の邪魔であり、不安定で危険であったので、重機を使って丘の上から転がして今の位置に落としてしまった。さらに、この石を爆破しようとしたのだが、爆破するには七百万円もの費用がかかることから、モニュメントとして残すことになった。台座などその他の岩は爆破されてしまったが、この岩は残ったので、長寿岩と名付けられた。
その後、イワクラ学会などによって、この岩がイワクラではないかと言われるようになったのである。
直径7メートル、重量600トンもの球体状の花崗岩の表面には、石英や長石で形成されたペグマタイトのラインが走っている。しかも、そのラインは2本あり、十字ベルトを形成している。まるで赤道と子午線のようである。
見事な球形の岩が台座の上に据えられていたことから、古代の人々が、表面に十字ベルトを持つこの岩を神聖視して、何らかの意図を持って祀っていたことは間違いない。柳原氏の神野山の天球図説との関係から、これが地球あるいは天球を表すものであったのではないかと考えたい。
なお、注連縄は、村の青年団がかけたものであり、宗教的な意味合いはない。
16時13分、長寿岩を出発し、近くの吉備津神社に向った。
【長寿岩】Photograph 2014.12.20

5 吉備津神社(16時15分)
□西波多の吉備津神社(北緯34度41分16.04秒、東経136度02分12.81秒)。
一直線の階段を登ると拝殿があり、そのさらに10段ほど上に巨大な岩にとりつくように小さな社がある。この社には中身がなく、後から便宜的に付け加えられたもので、ご神体は明らかに巨大な岩壁の磐座である。この吉備津神社は、磐座を祀るために、その前に拝殿を建てた形式である。それはこの神社が南西を向いていることからもわかる。神社を北東(70度)に拝する向きになっている。通常、神社は南を向いて建てられるが、この吉備津神社は磐座を拝する向きに建てられている。
また、この神社から神野山の頂上は、239度の方向に位置し、これは冬至の日の入りの方向(242度)にほぼ一致している。冬至の日に神野山を遥拝する場所であったと考えられる。
境内の石碑には、以下のように書かれている。

吉備津神社
山添村西波多(下津)字ヒガシウラ
併社 皇大神宮 津島神社 蛭子神社 金比羅大権現 吉守稲荷神社
祭神 吉備津彦之命
由来
当社の御神体は、境内山腹の巨岩(高さ6メートル、幅10メートル)であり、古代人が崇拝した「神」降臨し給う岩石信仰をそのまま継承して今日に及び、村内に於いてもその起源は極めて古い。
 祭神吉備津彦之命は孝霊天皇の御子、崇神天皇の時、四道将軍のひとりとして大和朝廷に刃向かう吉備の国を攻め、吉備の冠者「温良」と戦い激戦の末これを平定、以後この国を統治し、大氏神として岡山県吉備津神社に祀られる。この時の戦いは後々桃太郎伝承として伝えられるが、当下津にも鬼が塚や鬼岩があって興味深い。
鉄の神吉備津神社関係は全国に約五百社とされるが、奈良県内に於いては当社ただひとつである。
河内川の瀬音響く本社は、下津里人の心の依り場として、その存在意義は極めて大である。
─境内石碑より─

なぜ、この地に吉備津彦が祀られているのかは不思議である。岡山の吉備津彦神社は、夏至の日の出の方向を向いて建てられている珍しい神社で、太陽信仰を今に伝える神社である。ひよっとすると岡山の吉備津彦神社を造った氏族と、この山添村との間に何か関係があったのかもしれない。
【吉備津神社】Photograph 2014.12.20

この神社の脇に山ノ神が祀られている。山添村の各所には山ノ神が祀られており、それに関する神事も伝えられている。
奥谷和夫氏の説明によると、山添村では、鍵引き(カギヒキ)神事と倉立(クラタテ)神事が行なわれるという。カギヒキ神事は、1月7日の早朝に山に入って山ノ神のところへ行き、木の枝で作ったカギを注連縄に引っ掛けて、「西のくにのいとわた、東のくにのぜにこめ、だいこはきねほど、かぶらわうすほど、山の神のヤッサンヤー」という歌を唄いながらカギを引っ張り、福を呼寄せる行事である。この行事は男性だけで行なわれ、歌は各集落で微妙に異なっているそうである。また、クラタテ神事は、半紙を敷き、その四隅に幣を立て、真ん中にこうじみかんを刺した棒を立てる。そして、半紙の上に、お供え物をして、蔵が建つほどの豊作であるように祈る行事である。
この山ノ神の石碑の側には、木で造られた山の道具が置かれ、御神木には藁で編んだホウデンが吊されている。このホウデンは、男性の睾丸を模したものといわれている。
これらの神事は、山ノ神が春になると、山を下りて田の神になって五穀豊穣をもたらし、秋には、山に戻って山仕事の安全を守るという古い風習であり、山添村では、今も脈々と続けられている。
16時29分、吉備津神社を出発し、月ヶ瀬温泉に向った。
【吉備津神社のホウデン】Photograph 2014.12.20

6 月ヶ瀬温泉(16時43分)
山歩きの後の温泉は格別である。ツアー一行は、月ヶ瀬温泉につかって雨で冷えた体を温めた。
そして、今日の宿であるアートスコープにおいて、18時40分から懇親会が行なわれた。美味しい猪鍋をいただきながら、夜遅くまでイワクラ談義で盛り上がった。
【イワクラ学会懇親会】Photograph 2014.12.20

7 中峰山山中のイワクラ群(8時30分)
翌朝、バスを神波多神社の近くに止め、中峰山(チュウムザン)山中の見学が行なわれた。
私は、過去に、この中峰山に入ろうとしたが、登山口さえも見つけられなかった場所であり、今回のツアーで最も楽しみにしていた所である。

【中峰山へ向う一行】Photograph 2014.12.21

□舟岩(北緯34度41分22.02秒、東経136度04分05.03秒)
少し歩いたところに舟岩がある。周りが沼地で近寄れないが、沼地の中には舟岩と思われる岩の他に、2つの岩も見える。
素盞嗚尊が新羅より乗ってきたものとの伝説があるが、これは、神波多神社に素盞嗚を勧請した後に作られた話で、この舟岩はそれよりももっと古くから存在していた磐座であろう。
舟岩は、長さ10メートル、幅6メートル、高さ3メートルで、そのへさきが北を向いていると言われるが、遠すぎて形が良くわからない。また船尾にあたる岩がばらばらに配置されていることから、これはアルゴ座を示しているのではないかという説がある。アルゴ座のカノープスは、シリウスに次いで2番目に明るい星であり、海洋民族である波多一族が崇めていたのではないかということである。実際に、昭和初期までは注連縄がかけられて祀られていたらしい。
【舟岩】Photograph 2014.12.21

□地蔵岩(北緯34度41分18.55秒、東経136度04分06.20秒)
下部に地蔵が彫られた岩で、奥谷氏によると、聖なる岩に地蔵を彫って、大阪城の築城に使用されないようにしたということである。この村の人々がいかにイワクラを重要視していたかがわかるエピソードである。
【地蔵岩】Photograph 2014.12.21

□手まり岩(北緯34度41分22.02秒、東経136度04分22.70秒)
2メートルほどの丸い石。長寿岩と対比して、長寿岩が「太陽」でこの手まり岩が「月」を表すのではないかとの説もある。私は大神石へ続く道筋にあることから参道を示すランドマークと考えたい。
【手まり岩】Photograph 2014.12.21

□UFO岩(北緯34度41分22.39秒、東経136度04分23.37秒)
三段に組み合わされた、まるで鏡餅のような珍しい石組みのイワクラである。
【UFO岩】Photograph 2014.12.21

□天狗岩(北緯34度41分25.36秒、東経136度04分24.83秒)
巨大な岩が2つ並んでいる。右と左の岩にペグマタイトの白い線が対称に入っていることから、この2つの岩が、元は1つの岩であったことがわかる。
さて、この岩は自然に割れたのか、それとも古代人が割ったのかについては議論の分かれるところである。岩が自然に割れて、たまたま片側だけが自然にずり落ちたと考えられないこともない。
しかし、現地で角度を測ると、この右の割れ面は260度、左の割れ面は280度であった。
つまり東西方向(270度)を挟んで10度づつ離れていて、奥の方向つまり太陽の登る真東方向に狭まっている。私は、ここに古代人の意図を感じる。つまり、古代人が割って2つの岩を配置した可能性が高い。
【天狗岩】Photograph 2014.12.21

□男根岩(北緯34度41分26.57秒、東経136度04分24.91秒)
男根を模した岩。近くに女陰岩もある。
【男根岩】Photograph 2014.12.21

【女陰岩】Photograph 2014.12.21

□大亀石(北緯34度41分28.29秒、東経136度04分25.40秒)
中峰山山中で最も大きな岩ではないだろうか、大きな海亀に見える巨岩である。その反対側の下部は岩屋になっていて、潜り抜けることができる。

【大亀石】Photograph 2014.12.21

【大亀石】Photograph 2014.12.21

□大神石(北緯34度41分25.10秒、東経136度04分33.20秒)
名張川を見下ろす崖の上にある数個の岩から構成されたイワクラである。奥谷氏によると祭祀場ということであり、中峰山山中の重要な祭祀場であったと考えられる。
ここ中峰山山中は、山添村の中でもほとんど紹介されていない場所で、名前の付いていないイワクラらしき岩もたくさんあった。
2時間半もの山歩きでとても疲れたが、有意義であった。
ツアー一行は、尾根伝いに吉田の岩尾神社に向った。
【大神石】Photograph 2014.12.21

【大神石】Photograph 2014.12.21

8 岩尾神社(11時00分)
岩がたくさん現れ、巨石が見えると、いつのまにか、岩尾神社の拝殿に到着していた。

□岩尾神社(北緯34度41分07.83秒、東経136度04分20.48秒)
拝殿の裏には、東に男岩、西に女岩の磐座が鎮座している。
東の男岩は、特に大きく、表面には、ペグマタイトのラインが走っていて、そのラインが2本交差している。そう、あの長寿岩の十字ベルトと同じである。山添村の古代人は、このような十字ベルトを神聖視していたようである。
 【岩尾神社】Photograph 2014.12.21

この男岩と女岩の間に小さな本殿が置いてあるが、これは、後から便宜的に付け加えたもので、この神社のご神体は、男岩と女岩の磐座である。つまり、この神社も、磐座を祀るためにその前に拝殿を建てた形式である。
ご祭神は、岩尾大神である。この神様について山添村役場のホームページには、次のような伝承が掲載されている。

その昔、村人は神様を勧請するために、汗みどろになって奉仕し神殿を作った。あやしい黒雲が伊賀の国境からやってきて、神殿の上に覆いかかった。村人は恐れおののき合掌九拝した。神主の祝詞が終わるころ、この現象はおさまり、神殿の裏に、大きな石の長持一荷が置かれていた。巨岩には十字の白い筋がついていた。これは長持を荷ったときに使った「石だすき」であった。水を飲まれたらしい石の水鉢も残されていた。白だすきをかけた巨岩は、神様のご神体として、長持などの石とともに、今も村人たちに厚く崇拝されている。(平津要約)

境内の案内板には、以下のように書かれている。

山添村指定史跡 岩尾神社の神体石(吉田区)
昭和四十一年九月二十日指定
大字吉田の氏神で、神社の名も岩尾(いわお・・・大きな石の意)と呼ぶように、巨大な二個の自然石をご神体とし、その間に祠を設けて岩尾大神が祭られている。
その昔、この地に神が降臨された際、持参されたと伝えられる襷の跡のある巨岩、馬の蹄跡のある石、一荷にして運ばれたという庭の石などがあり、箪笥、長持、葛籠石、鏡石などと名付け、巨石崇拝の伝承として極めて貴重な存在となっている。
─境内の案内板より─

 【岩尾神社】Photograph 2014.12.21

岩尾神社の周りには、たくさんの巨石がゴロゴロしているのだが、どれがこの掲示板に書かれている箪笥なのか長持なのかを比定することはできなかった。
また、この岩尾神社では、子供たちが川原で拾ってきた石を参拝者が買い求めて供える夏祭「石売り行事」が残っているという。石に対して特別な思いを持っていたことがうかがえる。
一行は、神社の前で記念の集合写真を撮った後、11時20分、岩尾神社を出発し、バスで映山紅に向った。
9 レストラン映山紅(12時00分)
神野山のレストラン映山紅で、山菜料理の昼食をいただき、しばらく休憩をした。


10 牛ヶ峰岩屋枡型岩登拝(13時05分)
布目ダム付近で一番有名な磐座は、ダム北東部の牛ヶ峰岩屋枡型岩である。
ダムの東湖畔に、ダムに沈んだ牛ヶ峰の民家の共同墓地がある。ここにバスをとめて、山を登った。
山道には階段が整備されていて登りやすいが、いつきても、ここの階段はきつい。300メートルほど登ると巨大な岩にたどり着いた。
牛ヶ峰の岩屋である。

□牛ヶ峰の岩屋(北緯34度41分43.07秒、東経135度59分08.05秒)
高さ6メートル幅13メートル奥行き6メートルの巨石に大日如来が刻まれている(金剛界大日如来線刻磨崖仏)。この巨石が別の岩で支えられており、岩窟が形成されている。その岩窟の中に護摩壇があり、この岩窟自体が岩屋寺という寺だったようである。
大日如来が彫られた岩面は西を向いており、夕日が大日如来を照らすと同時に岩屋の奥に射し込むように造られている。それは季節によって場所を変え、向って左の岩屋に冬至の日の入りが、向って右の岩屋に夏至の日の入りが差し込む。岩屋に入る光の様子で冬至と夏至がわかることから、カレンダー機能を備えているようである。
立看板には以下のように書いてある。

山添村指定(名勝)岩屋枡型岩案内
由来(伝説)
この地域一帯をみやまと呼んでいる。中世以前の南都春日社境北野都杣の跡と考えられる。岩屋の磨崖仏は弘法大師の作で大師はこの大日如来像を刻み終わるとその時使用したのみとつちを枡型の中に納めたと伝えられる。古来二つの岩を大師岩と呼ばれた。枡型の岩が節理によって二つに割れてころがりおちたのが岩屋の岩であるといわれ岩屋(岩室)の中には護摩壇があって牛ヶ峰善龍寺の僧はここにこもって山居した。 山添村教育委員会
─立看板より─

 【牛ヶ峰岩屋】Photograph 2014.12.21

 【牛ヶ峰岩屋】Photograph 2014.12.21

さらに50メートル登ると、もっと巨大な岩が現れた。枡形岩である。

□牛ヶ峰の枡型岩(北緯34度41分42.81秒、東経135度59分10.05秒)
高さ16メートル、幅10メートル、奥行き7メートルの巨石で正面は少し湾曲した壁面になっている。その面は270度(西)を向き夕日を浴びるようになっている。南側は割れて隙間が空いている。また、この枡形岩と下の岩屋の巨石は、元々一つであったものが、割れ落ちて、斜面下の別の岩石に乗って岩屋を形成したと考えられている。この岩の特徴は、上部に四角い穴を開けて蓋が閉められていることである。この岩屋枡型岩について山添村役場のホームページには、次のように紹介されている。

824年、弘法大師が北野腰越の宝泉寺に住んでいたとき、夢枕に大日如来が立ち、東大寺の杣山であった牛ヶ峰を指さして「仏教の根本の基を開く霊場とするように」とのお告げがあった。大師は、のみとつちで岩窟の大岩に大日如来を刻んだ。その後、その岩の上部に枡型の切れ目をつけ、岩を掘り取った中にのみとつちを納めた。
以来、下の岩窟を岩屋、上を枡型岩と呼ぶようになった。岩屋は岩屋寺と呼ばれ、大師が彫った大日如来を本尊として、岩屋の中に不動明王を、入り口に善女龍王を祀る修業の聖地となった。
その後、1868年の神仏分離令によって起きた廃仏棄釈の波により荒れ果てていたが、北野西村の人びとが枡型岩の枡型を開き、一般に公開した。
この開扉の大法会によって、岩屋枡型岩は広く世に知られるようになり、多くの人が巡礼するようになった。(平津要約)

奥谷氏によると、枡型から出てきたのは、のみとつちではなく、御正躰(ミショウタイ)であり、村で大切に保管されているそうである。
山を下りた一行はバスに戻り、天王の森に向った。
 【牛ヶ峰枡型岩】Photograph 2014.12.21

【牛ヶ峰枡型岩】Photograph 2014.12.21

【牛ヶ峰枡型岩】Photograph 2014.12.21

11 天王の森(14時30分)
天王の森は、布目ダムの南の端にある。

□天王の森(北緯34度40分48.85秒、東経135度58分32.53秒)
立看板には以下のように書かれている。

山添村指定史跡(昭和49年7月10日指定)
天王の森(牛頭天王祭祀)峰寺区
一種の巨石崇拝と考えられ、山頂の巨岩群に牛頭天王を勧請したので天王の森と呼ばれ、古くから神聖禁忌の地である。布目川の中にある水神の森(水神祭祀)とあわせて、近在の信仰を集めている。なお、布目ダム建設によって、この岩山の一部が道路敷となったが、巨岩は現状のままこの地に保存された。山添村
─立看板より─

この磐座は、大変興味深い構造をしており、大きな三つの石が揃って南西(200度)を向いている。またその側にある小さな三つ石も南を向いている。さらに、東側にメンヒルがあり、これは先ほどの大きな三つ石から東西線を形成している。
この磐座が南の空の星を指していると仮定すると、三という数から、オリオン座の三つ星(ミンタカ、アルニラム、アルニタク)を意味しているのではないかという考えが浮かぶ。この三つ星は冬の空で最も目立つ存在であり、その直ぐ下には小三つ星と呼ばれる星も存在する。この磐座の構造にそっくりである。山添村の古代人は、天体を地上に写したイワクラを造るほど、星に異常とも言える想いを持っていたのであるから、オリオン座の三つ星に興味を持っていたとしても不思議ではない。
また、この磐座のロケーションを考えるとすばらしい光景が浮かんでくる。この三つ石は、今は道路と同じレベルにあるが、ダムが建設される前は、この道路は存在せず、磐座は山の上にそびえたっていたのである。人々は、この三つ石を遥か下から仰ぎ見たことであろう。
【天王の森】Photograph 2014.12.21

バスは、山添村を後にして、近鉄奈良駅に向った。
15時30分、近鉄奈良駅で解散となった。
山添村は、私にとって4回目の訪問であったが、来るたびに新しい発見がある。
また、訪れたい村である。


謝辞:
本レポートを作成するに当たり、懇切丁寧な助言を賜りました柳原輝明氏、奥谷和夫氏に感謝いたします。

2015年3月31日  「宇陀市・山添村イワクラツアー」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報33号 2015年4月1日発行  掲載